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アウトラインから書く小説再入門


プレミス

プレミス(Premis)とは「プロットとテーマを伝える一つの文」のこと。
プレミスはいわば「小さなアウトライン」。
人物、舞台設定、メインの葛藤を一つの文で表そう。
人物や舞台設定、テーマ、プロットはみな、プレミスから派生する。

ほとんどのプレミスは「もし〜したら?」という疑問で始まる。
「もし〜したら?」という問いには創作を生むパワーがある。

例えば・・・
「もし私たちの夢が実際に起きていることだったとしたら?」

プレミスに叩き上げると・・・
「反骨のジャーナリスト、クリス・レッドストンは夢で見ていることが現実に起きていると気づき、世界の崩壊を防ぐために戦わねばならなくなる」

すると、疑問が思い浮かぶ。
- どんな夢なのか?
- なぜクリスだけが気づくのか?
- なぜ破滅のときが迫っているのか?

▼プレミスを強固にする質問

  • プロット上の大きな出来事を4つか5つ挙げるとしたら何?
  • それぞれの出来事に最低2点、ひねりを加えたら?
  • ひねりを加えたバージョンは登場人物を何かに駆り立てるか?
  • ひねりを加えたバージョンには、どんな舞台設定の追加が必要か?
  • どの登場人物が主人公になりそうか?
  • インサイティング・イベントに最も影響を受ける人物は誰か?
  • その人物は人生において最低2つの大問題、あるいは不安を抱えているか?
  • それらの問題のうち、最も強い葛藤を生むのはどれか?
  • その問題は他の人物たちにどんな影響を及ぼすか?

ゼネラル・スケッチ

ゼネラル・スケッチ(全体の下書き)では、これまでに出たアイデアを書き出してプロットの空白を見つける。アウトラインの大枠作り。

突拍子もない考えも含めて、思いつきを全部書き出す。ストーリーについて考えたことを並べ、眺めながら、まだ決まっていない部分に印を付ける。同時に多くの「もしも」や「なぜ」を考える。

今、思い浮かぶシーンを挙げてみる。主な出来事を箇条書きににてみる。決まっていない部分をどうするかは後回し。ひたすら空想する。書けたものを時間を置いて見直し、漠然としている部分にチェックを入れる。疑問を掘り下げると、また新たな疑問が生まれる。

意識を開放する。脇道に逸れたり、細い隙間や隅っこまで探しまわるように夢想する。探検ヘルメットを被り、サファリに出かけるように。ひらめいてはっとするとき、胸が詰まる感じが本当にしたら、そのアイデアは使えるかもしれない。ストーリーや人物を考えているときに、胸が引き裂かれそうに感じたり、喜びで胸がいっぱいになったりするときは、読者にも似た体験をしてもらえる可能性が高い。

アウトラインが形になり始めたら「動機、欲望、ゴール、葛藤、テーマ」を意識する。ときどき一歩引いた目線で評価し、早いうちにすべての要素が揃っているかを確認する。


▼動機、欲望、ゴール
読者は登場人物の行動を見て、人物像を理解しようとする。それよりも人物が「したいこと」に興味を引かれる。善意や悪意をストレートに行動に移せないときがあるが、こうしたいなぁという気持ちは、その人にとっての真実。人物の人となりは行動に表れる。だがそれ以上に、行動の意図(動機)に表れる。登場人物について、したい行動と動機のリストを作ろう。

率直な人物を描くには、動機と行動を一致させる。
複雑な内面を持つ人物を描くには、動機と行動の不一致を垣間見せる。

フィクションの中核にあるのは主人公の欲望。主人公に強烈に何かを求めさせなければならない。欲望がエネルギーを生み、主人公は様々な障害を乗り越える。人物が何かを求めて何かにぶつからない限り葛藤は起きない。

欲望の対象は、物、人、心の状態、勝利、脱出、場所など。人物のゴールはプレミスによってまちまちだが、燃えるような消し難い欲望が必要。


▼葛藤
葛藤や対立はどのように作るのか。人物の動機、欲望、ゴールを設定し、人物とゴールの間に障害物を置くだけ。小説に力を与えるのは葛藤であり、葛藤に力を与えるのは人物のフラストレーションだ。主人公が勝利や幸福に王手をかけたときに、近道を与えずに遠回りさせる。

どんなストーリーも人間関係が中心だから、人物どうしを衝突させれば面白い葛藤が作れる。主人公が主に衝突するのはメインの敵対者。そのほかの脇役にも小さな衝突をさせる。

予想外の状況を与えてもいいだろう。予想外の状況や、価値観が合わない人との関係などに人物を引き込むことができるだろう。例えば、内気な主人公が人前で演説をすることになったらどうなるか? プレッシャーに負けるか、立ち上がるか。

対外的な葛藤や対立と同様に、心のなかの葛藤も大切。人物の内面と外面の両方を描けたら、深く豊かな人物表現ができる。障害に対する身体的・物理的な反応と、出来事に対する心理的・感情的な反応の両方を描こう。

強弱のバランスが大切。ずっと緊張させ続けるのではなく、たまには休ませて次の策を練る時間を与えよう。


▼テーマ
私たちは問題を投げかける刺激的な小説が好き。娯楽のために読みながら、学び、成長し、視野を広げたいと望んでいる。そんな望みを満たせるのは、真実を深く追求した作品だけ。そんな作品を描くには、作者自身が心から情熱を傾ける信念や真実を吐露しなくてはいけない。創作における最強の武器は、世界をあまねく見渡す独自の視点だ。

物語にメッセージを込めることは、作者の信条や持論を直接書くことではない。作者が強く信じるテーマでもがく人物を多面的に描くこと。そして、読者が厳しい問いを自分に投げかけたくなるようなプロットを作ることだ。小説家の仕事は答えを提示することではなく、疑問を投げかけることだ。

人物の行動やリアクションから自然にテーマが浮き上がる。テーマを強く打ち出すには、人物を強く前進させること。インサイティング・イベントからクライマックスにかけての人物の変化が、作品のテーマと結びつく。ただし、変化は人物の内面から発生させること。
  • 主人公の心の葛藤は?
  • ストーリー上の出来事で、主人公のどんな考え方が変化する?
  • 主人公の考え方は、どのように、なぜ変わる?

キャラクター・スケッチ

▼背景(バックストーリー)
太陽の光に輝く氷山はほんの一角で、それを支えるのは水面下にある8分の7。この隠れた部分がバックストーリーだ。本編の裏にあるストーリー。本編が始まる前の物語であり、人物の決断や行動を生み出す源なので、物語の進行や整合性づくりに欠かせない。目的は本編の方向をつかむため。バックストーリーを見れば、その人物の動機が分かる。

バックストーリーはどこから考え始めるか? 本編が動き出すところ、インサイティング・イベントを起点に考える。インサイティング・イベントでは、人物を取り巻く世界が後戻りをできないほど変わる。ドミノで言うなら最初のピースを倒す瞬間に当たる。人物の過去を作るとき、この鍵の部分から逆算していくと良いアイデアが浮かぶ。

  • インサイティング・イベントに遭遇する原因になった過去の出来事は?
  • インサイティング・イベントに人物がそんなに反応するのは、過去に何があったからなのか?
まずは大まかな背景を考える。それを起点に人物の動機と経歴を考える。
大枠が書けたら、出生地と生年月日を決め、その人物が影響を受けた人たちとの関係を考える。両親は誰で、どんなバックストーリーを持っているか? 主人公が子供時代に受けた影響に絞って考える。主人公と兄弟姉妹、そのほかの主要人物との関係も探る。人物の動機の真相が垣間見えそうな情報に注目する。

本当に探すべきものは、人物の人生を左右する忘れられない出来事。ひとつバックストーリーを考えるたびに、必ずひとつ、人物への見方を変える宝のようなものを見つける。深い洞察から得た情報は強い土台を作る。そのかけらがちらりと本編に見えれば、ストーリーが一層輝く。

バックストーリーは適度に。軽く流さず、負荷をかけ過ぎずという按配が大事。バックストーリーが関与する時間・場所と、そうでないものがある。丁寧に作った背景を読者に披露したい気持ちは山々だが、冷静に。読者が知りたいのは、次に何が起きるかだ。バックストーリーは第1章の直前の基本的な出来事を知らせるためだけに存在する。だらだら描くと読者の気を逸らしてしまう。水面下にある氷山の存在はちらりと知らせるだけにして、物語を前進させよう。


▼インサイティング・イベントとは
「この先、主人公はこれまでと同じように歩き続けられるか?
 もし答えがイエスなら、まだ最初の戸口まで来ていない証拠だ」

インサイティング・イベントが起こるのは、冒頭から4分の1ほど進んだあたりが目安。それまでに人物紹介や問題点、舞台設定をしっかりしておくと、読者はインサイティング・イベントで人物に共感し、ことの重大さを理解してくれる。それぞれが人生を歩み、それぞれの道がインサイティング・イベントで交差する。


▼人物インタビュー
人間関係や価値観、秘密について質問しながら考える。時間がかかるので、主観をとる人物と敵対者などの主要人物のみで十分。

人物の性格を9つのタイプで診断する「エニアグラム」は人物の長所と短所のバランスの確認に使える。


舞台設定

「環境を通して人となりを描く」
周りの風景、我が家、わが町に対する反応を描けば、その人物の姿が分かる。その場所が嫌いか? もし嫌いなら、なぜそこに住み続けているのか? そこで育ったのか? もしそうなら、どんな影響を受けたのか? 場所に対するリアクションで舞台設定を伝えながら、人物のことも明らかにできる。

舞台設定で、読者に感じてもらいたいムードを伝えることもできる。

舞台設定は、プロットを効果的に展開できるように意図的に選ぶ。面白い舞台設定は細部まで想像して活用し、読者の興味を引きつける。たくさんの場所を浅く描くより、魅力的な舞台を一つに絞る方が読み応えがある。メインの舞台以外の場所はできるだけ統合する。舞台の数を減らせば、伏線を張るチャンスが増える。

「ファンタジー世界構築クエスチョン」(パトリシア・C・リーデ)


  • 風景は?
  • この世界で社会はどうなっている?
  • テクノロジーはどのくらい発達している?
  • この世界の自然の法則は?
  • この世界にはどんな人々がいる?
  • この世界の歴史は?


詳細アウトライン

詳細アウトラインでプロット作りが本格的に始動する。できるだけ詳しく、ストーリーの洋書を並べていく。ポイントは後でアイデアが追加できる余地を残しつつ、各シーン内の大きな出来事をしっかりと立てること。基本的にセリフや地の文、心の声は書かない。シーンに番号を付ける。

「自分が一番読みたいと思うストーリーを想像してごらん。それを書けばいい」
自分にとって完璧な小説とは? 自分が好きな小説や映画の、どんな部分に心を引かれるのか。

▼誰の主観で書くのか?
主観(Point of View)は物語の決め手。どのシーンを書き、どのシーンを描かないかを左右する。誰の主観を選ぶかで、閉じる扉、開く扉が分かれる。

主観をとる人物の数を適切に。主観は少数に絞るほど効果的。主観を分散させればより多くのディテールが描けるが、メインの主観の力を弱めかねない。主観をとる人物は心情が表現されやすい。感情的に激しく反応しそうな人物の主観にとるとどうなるか? 複数の主観を使うと、読者は複数の人物の視点からものごとを見ることができる。主観をとる人物を増やすほど、読者の関心や愛着が分散する。いろいろな人物の主観をとると、ストーリーは寸断されて焦点がぼやけてしまう。

▼欠かせない3つの要素
人間関係・アクション・ユーモア。3つの要素の配分は作品によって異なるが、好きなどの小説もどれかが突出しているはずだ。

ユーモア。ユーモアは読者を楽しませ、登場人物に愛着を感じさせる。シリアスな場面の息抜きになり、暗くなり過ぎないようにバランスを保つ。「悲劇の極みの中でも、笑いを誘うものは常にある」

アクション。名作には必ず葛藤や対立が描かれている。葛藤や対立を描くにはアクションが必要。

人間関係。ストーリーとは人間の体験を表すもの。そして、その体験の根本にあるのが人間同士のやりとりなら、小説の核心は人間関係にあるはずだ。恋愛関係や家族関係、友人関係など。あらゆるストーリーの根底には、人間関係、あるいは人間関係の薄さへの嘆きがある。異なる人間関係を対比しながら心のつながりと断絶を描き、悲しみも勝利の喜びも際だたせる。

▼ドミノ式展開
ストーリーのシーンはドミノのピース。読者に読み進んでもらうには、一つのシーンが次のシーンに直接、影響を与えなくてはいけない。次のシーンに影響しないなら、削ってもプロットが成立するなら、そのシーンを削るか書き直そう。プロットの空白が見つかったら、順序をさかのぼって考える。


清書版アウトライン

「詳細アウトライン」は執筆時に読み返すのが大変なので、重要事項をさっと参照できるように新たに作るものが「清書版アウトライン」。詳細アウトラインは紙にペンで、清書版アウトラインはパソコンに入力しています。

使えない部分は削除し、使う部分は磨く。削除できるシーンや一つにまとめられるシーンはないか。作りやパワーが弱いシーンに目星を付ける。人物や舞台設定も同様に。スリム化を意識する一方で、ストーリーが求める語り方を大切にすることも忘れずに。

▼章の区切りを考える
シーンをどこで区切るかは重要な課題。読者に強い好奇心を抱かせる終わり方が必要。どんな章やシーンにも葛藤や緊張を加え、「次はどうなるの?」と思わせるにはどうしたらよいのか? ポイントは読者に疑問を抱かせること。

  • 対立の予感を匂わせる
  • 明かされない秘密
  • 大きな決断や誓い
  • ショッキングな出来事の知らせ
  • 感情の高まり
  • ストーリーを逆転させる事実の発覚
  • 新しいひらめき
  • 答えが示されない問い
  • 謎めいたセリフ
  • 何かの前兆を予感させるメタファー
  • ターニングポイント


ストラクチャーから書く小説再入門

掴み(フック)

掴み(フック)の形は様々だが、根底にあるのは「疑問」。読者が「知りたい」と思えば、掴みは成功。

▼掴みの要素
1. 疑問を感じさせる
2. 人物を登場させる
3. 舞台設定を伝える
4. 何かを明確に言い切る
5. 作品のトーンを感じさせる

読者の興味は人物にある。それも、目の前の出来事に反応している人物が良い。
考えるべき要素は3つ。登場人物とアクション、舞台設定。
「第二次世界大戦が始まった」ではなく「ヒトラー。侵攻。ポーランド」。

▼登場人物
読者がなぜ読み続けるかというと、人物のことが知りたいから。

▼アクション
幕が開くと同時に、人物は懸命に何かをしているべき。その人ならではの姿を描く。後にはっきりと想起でき、なおかつ人柄を表すアクションを。

どんなシチュエーションでも人物を動かす。その行動が次の展開を引き起こし、ドミノ式に連鎖していく。

▼舞台設定
●

-
次々と連鎖反応が起き始めるタイミングはどこ?そのシーンこそオープニングにぴったり。前置きは削除する。ストーリーは成立してる?人物紹介と性格描写はある?核心にズバリと切り込むエキサイティングなオープニングになった?

物語全体を通して答えを求めていく問いを「Dramatic Question」と呼びます。

▼最初の章の要素
- 強烈な「掴み(フック)」を仕掛ける
- 登場人物に読者が関心を持つ理由を与える
- 作品全体のトーンを打ち出す
- 舞台設定、葛藤、テーマを打ち出す

第1幕

本の最初の25%で人物や舞台設定、危機を紹介する。ストーリーに出てくるものは全て登場させる。第1幕で読者に見せたものだけで、残りが展開できるようにする。

読者に人物を知ってもらうこと。彼らは誰? 性格は? ものの考え方や価値観は? 人物の人柄は場面で表す。まず読者に人物を知ってもらってから、プロットを発展させる。

人物紹介と共に、舞台設定と「危機に晒されている大切なもの」を伝える。

▼登場人物
作家は役者でもある。人物の視点で書くときは、その人になりきらなくてはいけない。その人物を愛せなければ、理解もできない。心を深く探って、行動の理由を考える。

▼危機
人物の登場と同時に、その人物の大切なものも紹介する。その人物が必死で守りたいもの。後に大切なものを巡って戦うことになるので、大切なものを脅かす存在も紹介する。つまり、「敵」も第1幕で紹介する。あるいは、少なくとも存在を匂わせておく。

「危機に晒されている大切なもの」を伝えるだけでなく、描写を膨らませる。言葉で表現したり、アクションの描写で表現したり。平穏な日常生活の描写に「失いたくない大切なもの」を織り交ぜる。

家族や仕事、名誉などに対する人物の思い入れを描写すればするほど、後でテンションを高めることができる。「思い入れ」が描写できるのは第1幕だけ。

▼舞台設定
物語が展開する時間や場所を知ってもらう。設定次第で物語に統一感と深みが増す。
作品の輪郭を示し、プロットの枠になる。

プロットが要求する時間と場所を考える。次に、できるだけ読者に違和感を与えない範囲で、読みごたえのある設定にできないかを考える。場所の数を絞れば、書き手も読者も負担が軽くなり、内容を深めることに集中できる。

できるだけ早く主人公の身近な環境を描く。台所や寝室、オフィスなどの風景から、人物の内面が見えてくる。人物の登場に合わせて周囲の様子を簡潔に描き、重要なディテールを後から少しずつ紹介する。その人物は几帳面か、だらしがないか。裕福か貧乏か。興味の対象や趣味を何かのアイテムで表現できないか。生い立ちや将来の夢を想像させるような物が出せないか。

五感すべてに訴える描写を心がける。

どんな設定でも、読者にとって目新しい場所だと思って描く。想像できる範囲は読者によって異なる。

プロットポイント

その後の流れを激変させる転機に当たるシーンを「プロットポイント」と呼ぶ。大きな出来事や事件が起きて、物語の流れが変わるところ。騒動を巻き起こし、新たな対立を引き起こし、登場人物を動かすのが転機であり、プロットポイント。

25%地点のプロットポイントが他と大きく違うのは、その時から状況が一変すること。この先、人物は後戻りができません。状況説明が終わると、人物は行動に駆り立てられる。

プロットポイントで主人公に大きな刺激が与えられると、主人公は強く反応する。ここで第1幕が終わり、主人公の反応を皮切りに第2幕が始まる。プロットポイントは第1幕の山場。

第2幕(前半)

プロットポイント1(PP1)で大きな転機に遭遇した人物たちは、強く反応する。その反応が次の反応を引き起こし、第2幕前半が進んでいく。PP1で人物はガツンと打たれる。平穏な日々はもうおしまい。ガツンと打たれて、何かせざるを得なくなる。小説の中で最初の大きな転機を見てみると、その後の展開は「人物たちがどう反応するか」が鍵になっていく。

主人公はミッドポイントに至るまで、次々と反応を続ける。自ら行動を起こすこともあるが、あくまでも転機に対する反応としての行動だ。「この先どうなるのだろうか」と考えながら、体勢を立て直そうとする状態。

PP1での転機は状況を一変させる。もはや人物は後戻りできず、リアクションに迫られる。人物のリアクションに対して敵対者も反応を返し、それを受け入れてまた人物も反応する。

▼ミッドポイント
第2幕のど真ん中で、すごいことを起こそう。無限に続く砂漠のような中盤を書き始め、真ん中まで到着したら大転換。ストーリーを「吊るす」ための中心点こそ、第2の大きなプロットポイント「ミッドポイント」。第2幕の分け目になる。

ミッドポイントの役割は、中盤をぐっと引き締めること。それまで描いてきた人物のリアクションを締めくくり、人物の行動をスタートさせて第3幕に導く。2度めの大転機。ストーリーの流れが変わり、人物の反応もストーリーを変えていく。しかし、もう人物は受け身ではない。自らの意志で行動し、敵対勢力に対抗します。

ドミノ倒しに例えると、ミッドポイントは曲がり角。第2幕の前半のリアクションの連鎖がくるっと向きを変える、大きな局面。論理的な流に沿いつつ、全く新しい方向へ物語を展開しなければいけない。ミッドポイントで、人物は状況に反応するだけの状態から脱却する。精神的にも肉体的にも、サバイバルするために守りから攻めに転じることが必要。

第2幕(後半)

ミッドポイントを過ぎたら物語はヒートアップする。主人公は積極的に行動し始め、プロットの運びは活発になる。この裏にあるのは主人公が得た「気づき」であることが多いだろう。その気づきが何なのか、まだ主人公は言葉で表せないかもしれない。また、内面の弱さや欠点、問題も残っているだろう。しかし、「これではいけない、何かせねば」と思い始める。ミッドポイントの転機以降、徐々に生まれ変わろうとする。主人公は苦しい状況でも前向きに行動する。

第2幕前半の主人公は、身に振りかかる出来事に反応するばかりだったかもしれません。ミッドポイント以降の第2幕後半では、人物に内面の強さが生まれる。自力で運命を切り開くのは困難でも、その困難に対して何かしようと試みる。人物が成長しようとすることで物語が動く。人物に厳しい現実をぶつけ、苦しい思いを経て立ち上がる姿を描く。

この部分を使って主人公を鍛え抜き、終盤のクライマックスへと運んでいく。失敗から学び、また問題に直面させ、敵(主人公自身が内面に抱える敵も含む)に立ち向かう準備をさせる。内面も含めて、主人公が最大の危機に直面するのは第3幕。第2幕の後半は準備期間と捉えて、後に人物が直視しなければいけない欠点を伏線として描く。

第3幕

第3幕も劇的な事件で始まる。前との違いは、決してパワーダウンさせないこと。人物も、そして読者も一緒に、激しい流に突入する。全ての糸が絡み合い、結びへと向かう。第3幕は本の最後の4分の1にあたる。全体の75%地点かそれより少し前から始まり、終わりまで続く。

第3幕の課題は山ほどある。全ての登場人物(重要な物も含む)を集結させること。サブプロットに落ちをつけること。伏線の展開を明かすこと。主人公と敵対者の両方に、最終計画を実行させること。主人公に内面の弱さを直視させ、最終バトルで成長、変化を遂げさせること。

▼プロットポイント2(PP2)
第3幕も、大きな変化を促すプロットポイントで始まる。主人公をさらに強く前進させ、クライマックスへと向かわせます。以降のドミノは直線コース。まっしぐらに主人公と敵対者の衝突へと進む。PP2で人物はどん底に落ちる。望みが叶う一歩寸前でだめになり、これまで以上に落ち込む。そこから再び戦う力を呼び起こし、クライマックスへ。人物はPP2で燃え尽きて灰になった状態から、再起しなければいけない。

第3幕では自分の弱さや過去の過ちを直視せざるを得なくなります。この先の勝負に勝つには、真実を認めて打ちのめされ、這い上がって新たな知恵や力を得なくてはいけない。

ストーリーで大切なのは人物の変化だ。書き手の仕事は人物に変化をもたらす旅をさせること。多くの場合、それは成長の旅だろう。序盤にゴールに手が届かなかったのは、本人に何らかの思い込みがあったからではないだろうか。その思い込みや価値観を塗り替えるために、物語で旅をさせるのだ。ただの旅行ではない。その人物が新しい自分になるために、必ず通らなくてはならない局面に連れて行くのだ。

生か死かの究極の選択が必要。努力の甲斐なく、愛も希望も壊れていく。なぜなら、まだ人物が心に蓋をしているから。恐れや疑念など、これまで見ないようにしてきたものがあっただろう。最終決戦でそれを乗り越えなければ、未来には進めない。

▼クライマックス
完璧なエンディングには、必然性と意外性の両方が必要。理屈抜きで納得できて、予想外。必然かつ意外なエンディングを書くには、「伏線」と「複雑化」の二つが必要。つまり、パズルのピースをあらかじめ見せておくことと、多くのピースを見せて複雑に見せかけること。小説の終盤は、パズルで言うなら全体の絵がほぼ見えている状態。残り、あと10個ほどをはめ込んだら完成といったところにいる。

ほぼ全ての物語にあるのは主人公の「気づき」。クライマックス近くで何かを悟る。そして、それまでの考え方を捨て去り、敵にぶつかっていく。自分の心の葛藤にも、敵との対立にも、ここで決着をつけようとする。クライマックスの終わりに来る「クライマックスの瞬間」は、ラストから2番めのシーン。それが終わったら、あとはラストシーンのみ。語るべきことはクライマックスで出し尽くす。ラストシーンは情緒的な余韻を見せるだけの存在です。

解決

解決は、クライマックス直後から最後までの部分。勝負が付けば物語は終わるが、そこで小説もぷつんと終わってしまうと、読者は物足りなさを感じる。クライマックスでは感情が激しく刺激されるので、ほっとできるくだりが必要。人物が変化を遂げた後の姿を、少しだけ描く。

解決はできるだけ短いほうが良い

音楽と同じように、盛り上がった後は徐々に落ち着かせてエンディングに持っていく。読者が物語を堪能した後、ほっとしてゆっくり現実に戻れると良い。

まだ物語が終わっていない雰囲気も出す。読者が本を閉じた後も、生き残った主要人物たちの人生は続く。



文体の科学



第1章 文体とは「配置」である

文章(文体・style)は思想を彫らねばなりませぬ。それゆえ名文を書くためには主題に精通せねばなりませぬ。これにじゅうぶんの省察を加え、もって思想の秩序をはっきりと見極め、思想に適当の順序をほどこし、おのおのが一個の観念を表示するところの連鎖を作らねばなりませぬ。
(「ビュフォンの文章講演」)

文章の書き手がある主題について考えたこと(思想)とその配置こそ文体の本質であり、これは他人が盗み取れるものではない。というのも、文体とは人がものを考える際に設ける秩序と運動なのだから。

文章を書く人がどんな言葉を配置するかという点については、おのずとその人の経験と記憶が問題となる。人が文章を書く際に用いることができるのは、基本的に自分の脳裡に収まっている言葉だけである。私たちは文章を書くつど、それまで目にしてきた言葉や耳にしてきた言葉の経験とその記憶を活用して、そこから組み合わせを生み出している。言い方を変えれば、自分の記憶こそが言葉を選び出す際の母体である。

第2章 文体の条件―時間と空間に縛られて


第3章 文体の条件―記憶という内なる限界

そもそも言葉というもの自体が、さまざまな事物や経験を、コンパクトに圧縮保存するための記憶装置のようなものだ。言葉が記憶を圧縮して保存しているようだ。言葉がきっかけとなって、人間の脳裡に収められた記憶が顕在化するといったほうがよい。言葉とは、記憶に蔵された何かを引き出すための鍵のようなものだ。

第4章 対話―反対があるからこそ探求は進む

ガリレオ・ガリレイの「天文対話」。正式な書名はもうちょっと長くて「プトレマイオスとコペルニクスとの二大世界体系についての対話」という。

何かを「知る」とはどういうことか、これが対話の隠れた主題なのだ。

▼
なぜわざわざ対話にするのだろうか。ガリレオは、対話形式を採る利点をこう述べている。

「対話であれば数学上の法則に入念な注意を払わねばならぬということはなく、またときとすると主要な論証に劣らず興味のある脱線の余地も多いからです」

同じことを論文のような独話体で書こうと思ったら、数学的論証を細かいところまできっちり書いてしまわねばならない。この書物で検討したいのはそうしたことではなく、むしろ「天地のいずれが動いているのか」という大問題をどういう理路で考えるかという道筋だ。

対話なら「主要な論証に劣らず興味のある脱線」ができる。そもそも脱線とは何だろうか。一体どういう立場に立つと、ある議論が「脱線」していると感じられたり、そう判断できるのだろうか。それは、進むべき「本線」がすでに決まっている場合だ。

ことにある問題を巡って、決定的な結論が予め分かっていないような場合、つまり、到着点が見えないまま、探りながら進んでいくような場合、そもそもなにが「脱線」でなにが「本線」かということは、事の次第からして決めることはできない。そのような見方ができるとすれば、どこかに到着した後で、辿ってきた足跡を振り返ってみて、「ああ、ここに来たいのなら、もっと近道があったな」と事後的に「本線」と「脱線」を発見することだろう。だが果たして、その「脱線」がなければ、今立っている場所に辿り着いたかどうか、定かではない。

一つの問題を巡って、三人の人物がときに意見を対立させて歩み寄ったり行きつ戻りつしながら、共に試行錯誤してゆくその様こそが、ぜひとも必要だったのである。

対話という形式であれば、私たちの日常的なおしゃべりがそうであるように、話はあちらこちらへ遊んでよい。むしろ、対話の醍醐味は、独話では隠されてしまいがちな右往左往の過程、ああでもないこうでもないという試行錯誤の過程そのものを俎上に載せやすいという点にある。一足飛びに「結論」だけを欲しがるのではなく、どんな検討や試行錯誤を経て、その結論へと至ったのかという道筋を示せるのだ。ガリレオが、対話なら脱線できる余地があると言ったのは、恐らくこうした意味なのだろう。

▼
この対話の場では、参加者相互の間に何が生じているのだろうか。「天文対話」を見る限り、サルヴィアチとシムプリチオは、互いに同じ意見に達して合意したりはしていない。しかし、「天文対話」が素晴らしいのは、むしろ議論が決着しないところにある。容易には分かり合えない者同士が向き合っているからこそ、自分にとっては自明と思えることも、意見の違う相手に向けてきちんと言葉にしたり、対話の過程を通じて、様々な角度から検討が重ねられてゆくのである。

▼
二人の人がいて、互いに考えることが部分的にであれ「一致する」とはどういうことなのだろう。異なる人間は、当然のことながら異なる人生を歩み、異なる来歴を持っている。脳裡にある知識や経験やものの考え方、記憶のあり方は、人それぞれで違っている。そう考えると、むしろ人々が合意できること、理解し合えることのほうが不思議にさえ思えてくる。

自分の言葉がどのように受け止められたかを、直接確認する術はない。他人の頭の中を覗くことはできないし、心中なにが渦巻いているかを知ることはできない。ただ、サグレドやシムプリチオの言葉や表情や身振りといった外面に現れて、こちらにも知覚できるなにかを見聞きして、推し量る他はない。虫の居所や何を信じたいと望んでいるかといったこと、感情や信念が事態をいっそう複雑にする。

他人が何を考えているのかは分からない。というよりも、何がどうなったら他人の考えが分かったことになるのかということさえ、実はよく分からない。

私たちは言葉を使うとき、自分が言わんとすることを、既成品である言葉という鋳型に流し込み、組み合わせて提示しているのである。人の脳裡心中は分からないという大問題については、後で「小説」について考える際に、もう一度真正面から向き合うことになる。

それでも対話を続けているのが面白い。理解より無理解があるからこそ、互いの違いがいっそうはっきりと浮かび上がり、問題点が鋭く顕わになる。意見が一致せず、すれ違い続ける。だからこそ、対話は続く。言葉を尽くすほど、互いに脳裡で考えていることがより多角的に現れてくる。

▼
現在、書物のほとんどは独り言のように書かれている。それを書いたり読んだりするのはどういうことなのか。その独り言を入れて移動できるように形を与える書物とは何なのか。実は、本書全体の底には、このようなぼんやりとした疑問がある。


第10章 小説―意識に映じる森羅万象

その世界に存在しているということは、猫が思い出せる前にどこかで生まれたのであり、最初の記憶がある時点までの間も、なんらかの生活を営んでいたはずである。しかし、記憶を語る以上、思い出せないことは語りようもない。つまり、猫の記憶、しかもそうしようと努めて思い出せる記憶が、この語りの材料のすべてである。猫が経験しても記憶していないこと、記憶には刻まれていても思い出せないことは、語りたくても語れないのである。そうした記憶が蘇るには、きっかけが必要だ。例えば、ある男が紅茶に浸したマドレーヌの風味から、長い長い記憶を想起するように。

主に二つのことに注目した。一つは、書かれていることと書かれていないこと。もう一つは、この場面の時間の流れ。いずれも、小説という種類の文章について考える上で、非常に重要な点である。

書生が猫を見つけて拾い上げるまでのあいだ、一匹と一人、そして両者が存在する場所を構成するあらゆる物事とその変化、時間とともにそこで生じるすべての出来事のうち、カメラで撮影できるものだけが映像に映る。内心のようにカメラで撮影できないものは映らない。仮に、この映像に映る様子が全体だとしたら、先ほどの文章に表されているのは、その一部だ。書かれていることに対して、書かれていないことが膨大にある。

作家は小説を書くにあたって、必ず取捨選択を行っている。ある情景を書くとき、すべてを書き尽くすことはできないとしたら、何を書くのか。どのような言葉で書くのか。言葉をいかに配置するのか。ここにこそあらゆる小説の秘密がある。小説の文には、書き手がどのように世界を見ているか、どんな経験を重ねてきたか、どのような言葉を脳裡に蔵しているか、そういったことが否応なく現れるのである。それがいわば作家の「文体(style)」を形作っている。だから、仮に「同じ」場面を描くとしても、書き手が何に注目して、何を取り、何を捨てるか、それをいかなる言葉で表すか、つまり選択と省略の仕方によって、まるで異なる状況が描き出されることになる。

小説の文章は、複数の視点や時空間が撚り合わされている。そうした複雑な状況が、厳しく取捨選択された言葉で編まれている。

本を手に取り、小説を読み始めると、一本の線状に並んだ言葉に沿って、目と意識が働き、手はその流れを助けるようにページを繰る。小説に没頭すればするほど、最前まで次々と私の注意を奪い去っていったざわめきが背後に退いてゆき、言葉の流れにすっかり心身を委ねることになる。その言葉の綾をたどる読者の心中で、ある出来事が生じ、変化してゆく様が浮かんでは消え、ある気分が催される。小説とはそのような一種の秩序を与える言葉の装置なのだ。その秘密の鍵は、人間の「意識」の中にある。

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小説には何がどのように書かれているのか。このことを徹底的に考え抜いた人の一人が、夏目漱石だった。彼がロンドン留学を経て、帝国大学で講じた一連の講義、特に「文学論」として後にまとめられた考察は、今もなおこのことを考える上で非常に重要な考え方を示している。

漱石の狙いは、多様なかたちをとる文学全般を、できる限り普遍的に、根底から捉えてみることだった。それを煎じ詰めたのが、同書の開口一番に説かれる「F + f」という定式であり、「文学論」全体がこのことの意味を説くために書かれている。

【 F + f 】(認識)+(情緒)
F:焦点的印象または観念、認識的要素、知的要素
  感覚、人事、超自然、知識の4種類に分類できる。
  人が何かを思い浮かべること、認識すること。
f:情緒
  喜怒哀楽や恐怖、怒り、同情、恋心など。

「F」と言われているのは、「焦点的印象または観念」を記号で表したもの。恐らく「Focal impression or idea」のこと。また、Fを「認識的要素」や「知的要素」とも呼んでいる。もう少し具体的には、感覚、人事、超自然、知識の四種類に分類している。言ってしまえば、人が何かを思い浮かべること、認識することを指している。他方で「f」とは「情緒」であり、こちらは「feeling」を指すと思われる。喜怒哀楽や恐怖、怒り、同情、恋心などがこれに当たる。漱石は、およそ文学作品は人間が思い浮かべる「認識」と、それに伴う「情緒」という二大要素から構成されているというのだ。

満開の桜を眺めて(知覚)
「実にいいものだ」と感じ入る(情緒)

書生という人間の噂を聞き(知覚・知識)
恐ろしいと感じる(情緒)

こうしたさまざまな「F + f」によって、文学は作られているというのである。

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「焦点」とは何か。漱石は、当時の心理学(現在でいう認知科学や神経科学とも重なる)を念頭に置いている。

心理学者ウィリアム・ジェイムズの「意識の流れ(Stream of Consciousness)」という捉え方を踏まえている。ジェイムズは、人間の意識とは絶えず流れてゆく川のようなものだと喩えた。

イギリスの心理学者ロイド・モーガンは、その「意識の流れ」という見方に立って、もう一歩を進めた。つまり、人間の意識をさらに積極的に「波」に喩えて表現した。私たちの意識は、時々刻々絶えず波打って流れている。ある事柄が意識に現れたかと思えば、次第に消えてゆき、また別のものが次第に現れてくる。その波の頂点を、モーガンは「焦点(Focus)」と呼んだ。



私たちは自分の意識の状態ひとつでさえ、まともに記述することはできない。複雑すぎるし、ジェイムズが喩えたように川のごとく絶えず流れており、移ろう。それに対して、言葉というものは、あまりに粗雑すぎるかもしれない。だが、言葉という既成の鋳型を使うことで、私たちは、そうした変化し続ける波の連続から、なんとかその幾ばくかをすくい取り、固定して、他の人に伝えられるのだ。そして、文学作品では、人の意識の波の一部、意識に浮かぶもの、その波の「焦点」を、言葉で縫い取っている。これが漱石の言う「F」である。

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文学においては、何を描こうとも、そこには必ず人間の知覚や思考、記憶、情緒が反映されている。作家は、小説を書くにあたって、自らの意識の流れの中から、ある焦点を選び、それを表す言葉を記憶や辞書に探って選び、言葉の配置を選んで文を成し、文の配置を選んで文章を構成する。描かれる事柄は、人間であれ自然であれ人工物であれ無機物であれ、人間の意識に映じたかたちで表現されることになる。そこには当然のことながら、作家が生きる時代における人間理解、心と体の両面に関して諸学術が明らかにし得たことや世界観が反映されている。

人間の意識の性質を踏まえることこそが、文学なるものの本質に迫ることである。漱石はそう考えた。


本を読むときに 何が起きているのか


フィクション

ほとんどの小説家は、登場人物の身体的特徴よりも、その行動について詳細に描く。

人物描写は一種の輪郭作りだ。登場人物の特徴は、その輪郭を言葉で説明したものである。その人物の意味合いをはっきりさせるためだけに必要な特徴だ。

テクストが明らかにしていないものこそが、私たちの想像力を誘発する。私は自問する。作家の描写が省略が多く抑制的であればあるほど、私たちはより詳細に、この上なく鮮明に想像できるのではないだろうか?

登場人物は暗号である。そして物語は省略によってより豊かになる。

究極的には、登場人物が、架空の輪郭づけられた世界に登場するすべての人物や事象に対しての関係性の中で、どのような行動をとるかということが重要なのだ。

私たちは常に、小説の登場人物の像を脳裏に思い返し、再考し、修正して、さかのぼって再確認し、新しい情報を得るたびに更新するのだ。

時間

私にとって最高の本とは、高速で進みながらも、時折、人を停車させて路肩で驚かそうとする、そんな本だ。

ジェイムズ・ジョイスの小説の登場人物であるバック・マリガンは、「ユリシーズ」の冒頭においては、単なる記号にすぎない。しかし、小説の中で彼と他の登場人物との交流を知っていくと、より微妙なニュアンスを帯びてくる。ダブリンの人々とのやりとりから、彼の別の側面が見えてくる。ゆっくりと、バック・マリガンは複雑になっていく。

すべての文学作品の中の登場人物のキャラクターがそうであるように、バックのキャラクターも、行為と行為の相互作用から生まれた、複雑な現象と言える。

ナイフは、切るという行為によってナイフになる。

登場人物はその行為によって理解される。まるで後を追っている人を見るかのように、登場人物を思い描くのだ。群衆の中に飛び出た頭、角を曲がる上半身、見逃してしまいそうな足元・・・。フィクションにおいて、このバラバラな部分を集める行為は、実生活で人と場面を一致させる方法と似ている。

鮮やかさ

イメージの特定性と文脈がはっきりしていればいるほど、より鮮明にイメージは呼び起こされると、ナボコフは主張しているようだ。

描写の「真」の感覚は、その描写の特定性によるものだ。

描写は加法的ではない。しかし、見えているもの(光景)は加法的であり、同時発生的だ。

素描する

私が輪郭を捉えようとする形象の遠近感は、紙の一歩手前に、鉛筆の削ってないほうの端に。つまり、私の内部にあるのです。

技

私は、想像とは視力のようなものだと思う。つまり、ほとんどの人間が持つ能力である。しかし、もちろん、視覚を持つ者が全員同じ視力で見ているわけではない・・・。

あいまいで不完全な想像を超えられないことが真実ならば、それこそが、文字による物語が愛される究極の理由ではないだろうか。つまり、時に我々は見たくないのだ。

共同創作(Co-Creation)

良い本は、作家が提案したものに書き加えていくように、読者の想像力を誘発する。この共同創作の行為やパーソナライズ(個人化)がないと、読者には次のようなものしか与えられない。

私たちは、本の内容を想像するとき、その本が与えてくれる流動性や気まぐれを望んでいる。見せてもらいたくないものもあるのだ。

読書しながら見るこれらのイメージは、個人的なものである。私たちが見ることのないものが、作家がその本を書くときに描写したものである。つまり、すべての物語は変換されるべく、想像的に解釈されるべく書かれているのだ。その連想的に解釈されたその物語は、私たちのものなのである。

おそらく、役と舞台装置という2つの言葉は、小説を解説するときにも使えるのではないか?

読者は、小説の舞台となっている場所、登場する物や人物が、自分の思い描く場所や物、人物と同一であってほしいと思う。この欲望は矛盾をはらんでいる。この欲望は本人以外立ち入ることができない極私的な領域にアクセスすることへの欲望であり、一種の強欲である。しかしそれは、その光景を共有しているという、孤独に対する防衛策でもある。

読者の想像の領域中での、作家の役割とはなんだろう?

目、視覚、媒体

私たちは想像のメタファーを内側へ向かうものとしてとらえている。外部の光景は、内部の視界を抑制するだけだ。わたしは目隠しをされて歩いていたような気分がします。この本はわたしに眼を与えてくれるように思います。

想像は「内心の眼」のようだと言える。

茫然と、または思いに沈んで
臥しどに身をよこたえるとき
彼等は、孤独のよろこびである
内心の眼にひらめくのだ
(ウィリアム・ワーズワース)

ワーズワースの水仙は、想像したというよりは記憶したものだ。水仙の花、その黄金のグラデーションと、けだるい揺らめきが、最初は詩人に感覚的な情報としてとらえられたのだ。詩人はそれを(おそらく)受け身で受容する。後になって初めて、これらの花が、詩の中に反映されたり能動的な想像の栄養になるのだ。

どこかの時点で、ワーズワースはこの水仙の花を内在化した。しかし記憶の原料は、おそらくは実際の水仙なのだ。

「星屑」のように広がる花の黄色が、私たち自身の「内心の眼」の前で「ひらめく」。


本から何かを想像するとき、私たちはどこにいるのだろう? どこにカメラはあるのだろう?

物語が一人称で語られるなら、そして特に物語が現在形で進むならば、私たち読者は自然と、行動を語り部の「眼を通して」見るようになる。

語りの声が三人称の場合、あるいは、一人称の物語の舞台が過去の場合(まるで友人が物語を思い出しているような)、私たちは自然と行為の「上」もしくは「横」にいる。私たちの有利な観点、例えば、物語の有利な観点は「神の視点」だ。

記憶と幻想(Memory and Fantasy)

想像の材料として、そして想像と混ざりあっているものとしての記憶が、想像であるかのうように感じるのではないか。そして、想像というものが、組み立てられた記憶のようにも感じるのではないかと思うのだ。

記憶は、想像上のものから作られていて、想像上のものは、記憶から作られている。

小説の出来事や付属物を思い描くという行為は、私たちに思いがけず過去を振り返らせる。そして私たちは、夢をたどるように残像の中を探り、ヒントや、失われた経験の断片を探すのだ。

言葉が効果的なのは、その中に何かを含んでいるからではなく、読者の中に蓄積された経験の鍵を開けることができるという潜在的な可能性があるからだ。言葉は意味を「含む」が、もっと重要なのは、言葉が意味の有効性を高めるということである。

私は「川」という言葉を読み、文脈のあるなしにかかわらず、その表面的な言葉の下へ潜り込む。

読者の記憶はすでに川の水で溢れている。作家はその水たまりをちょっとつついてくれればいい。

共感覚(Synesthesia)

読書の際に経験することの多くが、ある感覚が別の感覚と重なったり置き換えられた、共感覚的な出来事である。音は見え、色は聞こえ、光景は香るなど。

真に伝わってくるのはリズムだ。このリズムは、若い女性のそばを歩く青年の上気する心を伝えている。彼の増幅する幸福感が、意味的にではなく、音響的に伝わってくるのである。

言葉の持つリズム、音域、擬音は、聴取者と読者(静かなる聴取者)の中に共感覚的な変質を形成するのだと、詩人なら誰もが言うだろう。

言葉から音楽が生まれる。

部分と全体(the Part and the Whole)

アキレウスには形容語句が添えられている。「蛇足の」アキレウスだ。この形容語句は、名札のようなものだ。読者やホメロス自身の記憶を助けてくれる装置にもなる。これらの形容語句は描写というよりは様式化されたものだ。

ヘーラーの目は、ある程度は、その人物設定全体を言い表すものだ。彼女の部分であり、彼女の全体性を表す代理だ。ヘーラーの目は、換喩と言われるものの例である。換喩は、ひとつの物(または概念)が、関連する何か別の物(または概念)で呼ばれる比喩的表現のことである。

もっと特定的に言えば、ヘーラーの目は提喩の例である。提喩とは、部分が全体を表す換喩である。

部分は全体の一部であるという「部分―全体関係」の理解は、現実世界を理解して、その理解を他者に伝えるためにはとても重要な道具である。

この部分から全体を推定する生まれ持った能力は根本的かつ再起的で、私たちは部分―全体構造を理解することで、現実世界において精神的にも物理的にも何らかの方法で機能できるようになるのと同じように、登場人物を見ることができ、物語を見ることができるようになるのだ。

形容語句と隠喩は名前ではない。しかし、どちらも説明ではない。作者が登場人物の代わりにどの要素を選ぶかというのは非常に重要な問題だ。そのやり方によって、作者は、その登場人物をさらに定義づけることになる。

ぼやけて見える(It is Blurred)

世界は断片からできている。不連続で、散らばった、断続的な点。

私たちは、自分自身や周囲のことを読み取り、形容語句を与え、隠喩、提喩、換喩することによって知る。世界で一番愛している人のこともそうだ。彼らの断片と彼らに置き換えられたものを読み取っているのだ。

私たちは未完成で進行中である世界の断片を、時間をかけてつなぎあわせ、統合しながら理解していく。

作家は経験をキュレーション(収集・整理・管理)している。世界の雑音をろ過して、その雑音の中から可能な限り純粋な信号をつくる。つまり、無秩序から物語を作るのだ。

私たちの脳は、世界中に存在する、ろ過されていない暗号化された信号と同様に、本というものもろ過されていない信号とみなしている。つまり、作家の著作は、読者にとっては、雑音という種に属しているのだ。作家の世界観をできるだけ自分たちの中に飲み込んで、私たちの思考の中にある蒸留機の中で、その素材を自分たち自身の世界と混合し、組み合わせ、何か唯一独特のものに変質させるのだ。

本を読むという活動は、意識そのもののように感じ、また、意識そのもののようなものだ。つまり不完全で、部分的で、かすみがかっていて、共同創作的なものなのである。

物語を思い描くことは、絵の中で人物が影にされてしまうように、要約することである。そうすることで意味を作り出す。

細部ではなく、あくまで輪郭を描くのだ。


創作の極意と掟


凄味

自分の表現するものの正当性があまり正当でなく、ちょっとズレていた方が凄味が強く出る。私の感覚は正しいと主張して少しまともではない感覚を表現する方が、凄味があるのだ。

逆に、自分の考え方すべてに自信満々という人の書いたものには、まったく凄味がない。なぜ自信満々なのかというと、その考え方が誰にでも受容できる凡庸な、陳腐極まりないものであることが多いからだ。それが良識のつまらなさであり、普遍的な価値観の退屈さであり、自動的な思考の馬鹿らしさなのである。

技巧によって凄味を出したりもする。理解不能な人物を登場させたり、舞台設定をあやふやにしたり、登場人物の心に存在する闇の部分を仄めかしたり、作者であることの優位性を利用して必要なことを読者に教えなかったり、ここから先は作者にしかわからないのだということを強調したり、つまりはその作品世界の「底の知れなさ」を読者に感じさせるのである。

色気

主として文中に、ほとんどは作者が意図せずして生み出し、時には湧き出させ、稀に横溢させている色気のことである。

そもそも小説は情感を伝えることが大事であり、たいていの作品はそれを意図して書いている。いかにして自分の情感を伝えるか、そのためにはどのような表現をすればよいかに腐心する。だから、どのような小説の文章にも色気があるのは当然と言える。

「死」や死に直面する「恐怖」は、案外色気と結びつくのである。「すぐ傍らに死があるから『いまの瞬間』をこのうえなく美しく感じたのだろう」

通常想像する色気のある文章とは、情感たっぷりの、情緒纏綿たる、形容過多の文章である。そのような文章の対極にあるのがハードボイルドの文体だ。簡潔な、ぽきぽきと釘が折れたようなと形容されることの多い文章だ。では、ああいった文章に色気はないのかと言えば、ちっともそんなことはない。

揺蕩

【揺蕩】ようとう
 ゆれ動くこと。ゆり動かすこと。動揺

小説家というのは、考え方を理論化するのではなく、小説にしなければならないのだ。体系立てていないままの考えであり、それを小説に書こうとしているうちは、辻褄の合わぬところが生まれてくる。登場人物の主張や考え方が、前半と後半で違ってきていたり、作者つまり語り手のある事象に関する価値評価や判断がふらふらと揺れ動き、確定しない。こういう「揺蕩」を批評用語でアポリアと言う。この揺蕩を作家は恐れてはならない。

その揺蕩ゆえに新しさが発見されたりもするし、実際に批評家たちはこのアポリアを珍重して、その作家を理解する一助とすることもあれば、その作品の新しさや作家の言いたいことを発見したりもする。

精神の揺蕩を持たぬ人がいるだろうか。それはその人の成長の証なのかもしれないではないか。

迫力

創作において迫力を生む題材といえば「対立」であろう。主人公と何者かの対決。運命との対立、社会との対立という小説もあり得るが、その場合は運命や社会を体現している他者が登場することになる。

善悪の対立。主人公を悪にしてしまう方法があり、これだと文学にもなり得るだろう。悪を描こうとする時、作家は自分の中にある悪の部分を顕在化させ、見つめなおすという作業が必要になってくる。作者がどこまで、そして如何に自分自身の中の悪と対決ができるかが迫力の源となってくるだろう。

自分自身の脆弱な部分、卑劣な部分、臆病な部分を前景化させ、時には拡大したりするのは、私小説において壮絶な迫力を生む。自分自身との対決の中でも作家にとって特に過酷なのは、自身の俗物性との対決であろう。作家としてその俗物性を追求し、対決しなければならないのだと思う。けち臭さ、名誉欲、虚栄、金銭欲、色好み、世間体、嫉妬心、好奇心、美食、アルコール依存など数えあていけばきりがない。俗物性との対決は、作家にとって不可欠の作業である。これが創作においてどれだけ役に立つかは計り知れないものがあるのだし、そこには迫力の源が存在する。

最期の対決の相手は「死」である。主人公または作家が対決しなければならない最大のものが死であり、最大の迫力を生むのが死である。

展開

迫力ある筋運びとテーマなどの思索、この両極端な面白さを共に表現し続けるという展開を強いられる場合は大変多く、恐らくこれが展開を考える上で一番重要であり、一番の問題なのではないかと思う。

会話

会話で迫力を生むのはやはり対立であろうか。二人、または三人、または四人と、価値観の異なる人間が対立する図式は、実にまことに小説的である。対立でなく説得であってもいいし、交渉であってもいい。表面的には日常的な挨拶の裏にも対立があったり、恋愛の睦言の裏にも説得や交渉があったりする。とにかく会話は個性の異なる人物によってなされなければならないだろう。

夏目漱石の「明暗」。一見それは日常用語の会話であるようだが、裏に壮絶な対立を秘めている。会話の凄味を増しているのが地の文である。この場合は会話の読みやすさとは逆の難解さで、その単純さを補うかのように地の文は文学的、というよりは心理小説的、といった方がいいような文章によって、言語や行為の裏を読んでいる。それによって会話までが凄味を増す。












カート・ヴォネガット


1. 赤の他人に時間を使わせた上で、その時間は無駄ではなかったと思わせること。

2. 男女いずれの読者も応援できるキャラクターを、少なくとも一人は登場させること。

3. たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること。

4. どのセンテンスにも二つの役目のどちらかをさせること。登場人物を説明するか、アクションを前に進めるか。

5. なるべく結末近くから話を始めること。

6. サディストになること。どれほど自作の主人公が善良な人物であっても、その身の上に恐ろしい出来事を降り掛からせる。自分が何からできているかを読者に悟らせるために。

7. ただ一人の読者を喜ばせるように書くこと。つまり、窓を開け放って世界を愛したりすれば、あなたの物語は肺炎に罹ってしまう。

8. なるべく早く、なるべく多くの情報を読者に与えること。サスペンスなぞくそくらえ。何が起きているか、なぜ、どこで起きているかについて、読者が完全に理解しなくてはいけない。たとえゴキブリに最後の何ページかを噛じられてしまっても、自分でその物語を締めくくれるように。

村上春樹インタビュー集

「地下室」について

人間の存在というのは二階建ての家だと思ってるわけです。一階は人がみんなで集まってごはん食べたり、テレビ見たり、話したりするところです。二階には個室や寝室があって、そこに行って一人になって本を読んだり、音楽を聴いたりする。そして地下室があって、特別な場所でいろんなものが置いてある。ときどき入ってぼんやりする。その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。

それは入るのが難しい場所です。運が良ければあなたは扉を見つけて、この暗い空間に入っていくことができるでしょう。そこでは、奇妙なものをたくさん目撃できます。目の前に、形而上学的な記号やイメージや象徴がつぎつぎに現れるんですから。それはちょうど夢のようなものです。

本を書くとき僕は、こんな感じの暗くて不思議な空間の中にいて、奇妙な無数の要素を眼にするんです。それは象徴的だとか、形而上学的だとか、メタファーだとか、シュールレアリスティックだとか、言われるんでしょうね。こうした要素が物語を書くのを助けてくれます。作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見てるようなものです。それは、論理をいつも介入させられるとは限らない、法外な経験なんです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。

セックスは鍵です。夢と性はあなた自身のうちへと入り、未知の部分をさぐるための重要な役割を果たします。そうした場面は、先ほどお話しした隠れ扉を、読者が自分で開くことを可能にしてくれるからです。僕は読者の精神を揺さぶり、震わせることで、読者自身の秘密の部分にかかった覆いをとりのぞきたい。それでこそ、読者と僕の間に、何かが起きるんです。

小説を書いているとき、僕は暗い場所に、深い場所に下降します。井戸の底か、地下室のような場所です。そこには光がなく、湿っていて、しばしば危険が潜んでいます。その暗闇の中に何がいるのか、それもわかりません。それでも僕はその暗闇の中に入って行かなくてはならない。なぜならそれこそが、小説を書いているときに僕がいる場所だからです。僕はそこで善きものに巡り会い、悪しきものに巡り会い、ときには危険に遭遇します。そしてそれらを文章で描写します。僕の小説に登場する悪しき人格は、その暗闇の中で巡り会った人々です。僕は彼らの存在を感じることができます。彼らの息づかいを感じることができます。ときには寒気のようなものを感じることもあります。僕はそれをできるだけ正直に描写しなくてはならない。それが何を意味するのかはわからないけれど、そういうものがそこにあることを僕は感じるのです。

夢を見ているのと同じ

フィクションを書くのは、夢を見ているのと同じです。夢を見るときに体験することが、そこで同じように行われます。あなたは意図してストーリー・ラインを改変することはできません。ただそこにあるものを、そのまま体験してくしかありません。我々フィクション・ライターはそれを、目覚めているときにやるわけです。夢を見たいと思っても、我々には眠る必要はありません。我々は意図的に、好きなだけ長く夢を見続けることができます。書くことに意識が集中できれば、いつまでも夢を見続けることができます。今日の夢の続きを明日、明後日と継続して見ることもできる。これは素晴らしい体験ではあるけれど、そこには危険性もあります。夢を見る時間が長くなれば、そのぶん我々はますます深いところへ、ますます暗いところへと降りていくことになるからです。その危険を回避するためには、訓練が必要になってきます。あなたは肉体的にも精神的にも、強靭でなくてはなりません。それが僕のやっている作業です。


もし悪夢を見れば、あなたは悲鳴を上げて目覚めます。でも書いているときにはそうはいきません。目覚めながら見ている夢の中では、我々はその悪夢を、そのまま耐えなくてはなりません。ストーリー・ラインは自立したものであり、我々には勝手にそれを変更することはできないからです。我々はその夢が進行するままを、眺め続けなくてはなりません。つまりその暗闇の中で自分がどこに向かって導かれていくのか、僕自身にもわからないのです。

強い精神力が必要

物語を自分の中に見出し、それを引きずり出してかたちにすることは、作家にとっては時として危険です。走ることは、僕がその危険を避ける助けになっています。

誰でもきっと自分の想像世界を魂の中に持っているはずです。しかしそちらの世界へ行き、特別な入り口を見つけ、中に入って行って、それからまたこちらにもどってくるのは、決して簡単なことではありません。ただある種のドアを開けることができ、その中に入って、暗闇の中に身をおいて、また帰ってこられるという特殊な技術がたまたま具わっていたということだと思います。


作家が物語を立ち上げるときには、自分の内部にある毒と向き合わなくてはなりません。そうした毒を持っていなければ、できあがる物語は退屈で凡庸なものになるでしょう。僕の物語は、僕の意識の暗くて危険な場所にあり、心の奥に毒があるのも感じますが、僕はかなりの量の毒を処理することができます。それは僕に強い肉体があるからです。

物語を得るためには、僕はその源を探して掘り進めなくてはなりません。僕の心の暗い場所に物語が潜んでいて、そのすごく深いところまで掘っていかなくてはならないのです。そのためにも、肉体的に強くあることが必要になります。暗いところまで行き着くためには、何時間も集中しなくてはなりません。その途中で僕はさまざまなものごとに遭遇します。もし肉体的に弱ければ、そうしたものを時として得そびれてしまうでしょう。

フィクションが強制的に、僕をもうひとつの部屋に連れ込むのです。そこはとても暗く静かで、僕は多くの奇妙なもの、野性的なもの、シュールリアリスティックなものの目撃者となります。書くときに、僕は自分の精神の奥底へ潜っていく。深く潜れば潜るほど、危険が生じます。そこに生起する生き物やイメージや音に対抗するためには、強くなくてはなりません。恐怖の扉をあえて開ける勇気が必要なんです。


自分の魂の不健全さというか、歪んだところ、暗いところ、狂気を孕んだところ、小説を書くためにはそういうのを見ないと駄目だと思います。そのたまりみたいなところまで実際に降りていかないといけない。でも、そうするためには健康じゃなくちゃいけない。肉体が健康じゃなければ、魂の不健全なところをとことん見届けることができない。


向こう側の世界と、こちら側の世界

向こう側の世界と、こちら側の世界。そういう二つの世界の相関関係というのは、僕にとってはすごく大きなテーマで、多かれ少なかれ、どの本にも出てくるんです。

「雨月物語」なんかにあるように、現実と非現実がぴたりときびすを接するように存在している。そしてその境界を超えることに人はそれほどの違和感を持たない。これは日本人の一種のメンタリティーの中に元来あったことじゃないかと思うんですよ。

中上健次さんも「雨月」を範に取ったものを書いていらっしゃる。物語の再生みたいな意識があの人の中にはあったと思うんです。僕の場合は、物語のダイナミズムというよりは、むしろそういう現実と非現業の境界のあり方みたいなところにいちばん惹かれるわけです。

僕の小説には現実の世界と、現実ではない世界の間を行き来する部分がよく出てきますが、そのとき人は一度自分の組成をすっかり壊さなくちゃいけない。質量を失って、ひとつの原理にならないといけない。そうしないと向こう側にはいけない。

僕は思うんだけど、人には「原理になってしまいたい」という欲求があるんじゃないのかな。肉体を失って原理になってしまいたい。「壁抜け」というのはそういう意味においても可能なんです。原理というよりは、むしろvoid=虚空という方に近いかもしれない。人間存在の核はvoidであるという方が、僕の論点には合っているかもしれませんね。我々は結局のところvoidに付着している表象スタイルの総合体に過ぎないのだと。

新しい価値観をつくる

僕らは今、途方に暮れている。僕らは戦争が終わってからずっと、実に勤勉に働いてきました。脇目もふらずに働いた。そして国は復興を遂げ、だんだん豊かになっていった。そして安定した状態に至った。これで一安心。でもそこで僕らは自分自身に問いかけることになりました。さて、我々はどこにたどり着いたのか? これからどこに行くのか? 我々はいったい何ものなのか? でもクリアな答えはない。これは一種の自己喪失のようなものです。

そろそろ新しい価値観を作るべき時期だと思うんです。それも、偉そうなものじゃなく、ありきたりのもので作っていく時期が。とにかく冷蔵庫にあるものでなんとかする。これからはそういう時代だと思うし、僕もそういうことをやっていきたいという気がしているんです。僕としては小さいものごとを集めることで、大きな物語を作っていきたいと思っています。正面からボンと大きなことを言うんじゃなくて。

労働は豊かさをもたらし、豊かさは幸福をもたらす、と考えられていたんです。僕らは豊かになったんです。ただし、いまだに幸福を見つけられずにいた。僕らはどこかで自分を見失ってしまったと感じており、自分たちの価値や特性をふたたび問い直さなければなりませんでした。「幸せになること」が、新たな信仰箇条となったんです。いま僕たちには、じっくりと考える時間がある。つまり、別の道を見出すための時間が。

物語を体験するというのは、他人の靴に足を入れることです。世界には無数の異なった形やサイズの靴があります。そしてその靴に足を入れることによって、あなたは別の誰かの目を通して世界を見るようになる。そのように善き物語を通して、真剣な物語を通して、あなたは世界の中にある何かを徐々に学んでいくことになります。

自分たちは比較的健康な世界に生きている、とみんな信じています。僕が試みているのは、こうした世界の感じ方や見方を揺さぶることです。僕たちは、ときに、混沌、狂気、悪夢の中に生きています。僕は、読者がシュールレアリスティックな世界、暴力や不安や幻覚の世界に潜ってゆくようにしたい。そうすることによって、人は自分の中に新しい自分を見出せるかもしれません。

我々は多くの場合、メディアを通して世界を眺め、メディアの言葉を使って語っているのです。そのような出口のない迷宮に入り込むことを回避するためには、ときとして我々はたった一人で深い井戸の底に降りていくしかありません。そこで自分自身の視点と、自分自身の言葉を回復するしかないのです。

一九九五年は象徴的な年でした。バブル崩壊と重なって、そのあと規範みたいなものが急速に失われていった。そして旧来のものに代わる新しい価値体系がまだ見つけられていない。

小説を書くことについて

小説を書き出して、毎日毎日休みなくこつこつとそれを書き続けます。するとそのうちに、暗黒のようなものが訪れてきます。そして僕にはその中に入って行く準備ができている。でもそういう段階に達するためには、時間が必要です。今日書き出して、明日にはもうその中にすっと入れるというものではありません。

僕自身が最も理想的だと考える表現は、最も簡単な言葉で最も難解な道理を表現することです。

人が孤独に、しかも十全に生きていくのはどうすれば可能か。三十歳になる前後というのは迷う頃だし、自分にとって人生の価値とは何なのかを真剣に考える時期で、僕の語る物語を求めるのは、やっぱりそういう人たちなんじゃないかという気がするんです。

人間が孤独に生きながら、いかに社会との接点を見つけて自分の人生の方向を見出していくかということを、真剣に考える年齢というものに、やっぱり呼応している。

説明するんじゃなくて、子どもに受け入れられるような言葉で、いちいち具体的に描写するんです。お人形の手紙というかたちをとって、架空の世界をそこにどんどん立ち上げていくんです。僕もそういう立ち上げ作業って大好きですね。架空を実在にまで持っていく。

「息の長い細密な描写力を身につけなくてはならない」というのは、僕にとっての命題として残った。立ち上げというのは難しいんですね。どれくらいリアルに細密に立ち上げられるかというのは。要するに、描写力なんです。

ノンフィクションは事実を尊重します。でも僕の本はそうではありません。僕はナラティブ(物語)を尊重します。それは生き生きとしたものであり、鮮やかなものです。それは正直なナラティブです。僕が集めたかったのはそういうものなのです。彼らの語ったことはすべて真実である必要はありません。もし彼らがそれを真実だと感じたのなら、それは僕にとっても正しい真実なのです。事実と真実とは、ある場合には別のものです。

僕はできるだけ意味性を取り払いたかった。カタカナで名前を付ければ、その名前はより匿名性を獲得することになります。シンボルや、記号に近いものになります。ちょうどフランツ・カフカが「審判」の主人公にヨーゼフ・Kという名前を付けたのと同じように。その人物の名前がKであることで、それが「誰でもあり得る」ことが示されています。それはあなたかもしれないし、僕かもしれない。シンボライズされたメッセージです。

ユーモアというものは、僕の小説の中でも、きわめて大きな役割を果たしています。本当の意味での「シリアスさ」は笑いの要素がなくては成立しないのではないかとさえ思います。(楽しさの中で学ぶ)


「ギャツビー」の魔法の力は、不完全さにあるのだと思うようになりました。前後の脈絡のずれた長いセンテンス、設定のある種の過剰さ、登場人物のふるまいに時おり見られる一貫性の欠如。この小説が持っている美しさは、そういうもろもろの不完全さの積み重ねに支えられているんです。


「少なくとも最後まで歩かなかった」、墓石にそう刻んでもらいたい。

井戸が示しているのは、たとえとても深い穴の中に落ちてしまったとしても、全力を振り絞って臨めば堅い壁を通り抜け、再び光のもとに帰れるということです。語っている物語が力を備えさえすれば、主人公と書き手と読者は共に「ここではない世界」へと到達できる。そこは元の世界でありながら、旧来とは何かが違う世界です。

例えば「海辺のカフカ」だったら一日十枚ぐらいのペースで書きました。規則正しくきちっと決めて書いていって、半年で仕上げてそのときは千八百枚、それに手を入れながら削っていって千六百枚にした。

「注文を受けては小説を書かない」というのは、ほとんど最初から通していることです。締め切りができちゃうと、ものを書く喜びがなくなっちゃうから。自発性も消えてしまうし。

物語について

僕の考える物語というのは、まず人に読みたいと思わせ、人が読んでも楽しいと感じるかたち、そういう中でとにかく人を深い暗闇の領域に引きずり込んでいける力を持ったものです。できるだけ簡単な言葉で、できるだけ深いものごとを、小説というかたちでしか語れないことを語りたい。

計算して書いたら、計算して書いた、という話にどうしてもなっちゃう。手探りして進みながら、自然に顔をのぞかせるものを、するっと素早く引っぱり出していくのが物語です。

地形によって水の流れが自動的に決まってしまうとの同じように。作家というのは基本的にその道筋をたどっていけばいいわけです。流れを理解すればそれでいい。物語というのは、僕にとっては質量のない絶対原理であって、僕はそれを言語的に書き換えているだけです。

何度読み返したところで、わからないところ、説明のつかないところって必ず残ると思うんです。物語というのはもともとがそういうもの、というか、僕の考える物語というのはそういうものだから。物語というのは、物語というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための、代替のきかないヴィークルなんです。極端な言い方をすれば、ブラックボックスのパラフレーズにすぎないんです。

「ペット・サウンズ」とか「スマイル」は年に一回ぐらいは聴き返さなくてはいられない。どうしてそんなに何度も聴き返したくなるかというと、僕は思うんだけど、ブライアン・ウィルソンの音楽の中には、空白と謎がなおも潜んでいるからです。そしてその空白と謎は、ブライアン自身の中に潜んでいる空白と謎に、有機的に呼応しているからなんです。それが僕の言う「物語性」です。

物語というのは、たとえ見栄えが悪く、スマートでなくても、もしそれが正直で強いものであれば、きちんとあとまで残る。

我々小説家がやるべきことはおそらく、そういった(深い井戸の底に降りていくような)「危険な旅」の熟練したガイドになることです。そしてまたある場合には読者に、そのような自己探索作業を、物語の中で疑似体験させることです。僕にとって物語とは、さまざまな特別な機能を持ったパワフルな乗り物なのです。

美しい文体や知的な筋に価値はあるけれど、最終的に重要なのは、次々に起こる何かを読者に期待させることなのです。次の展開がどうなるのか読者が想像せずにはいられない。それが優れた物語です。言語や国境を越えて。

小説の中で描きたいこと

僕が個人的に興味を持っているのは、人間が自分の内側に抱えて生きているある種の暗闇のようなものです。その暗闇の中ではいろんなことが、あらゆることが、起こります。僕はそれらのものごとをしっかりと観察し、物語というかたちで、そのままリアルに描きたいのです。解析したり、説明したりするのではなく。

僕が、僕の小説の中で描きたかったことのひとつは、「深い混沌の中で生きていく、個人としての人間の姿勢」のようなものだった。

すべての人間は心の内に病を抱えています。その病は、我々の心の一部なのです。僕らは意識の中に「正常な部分」と「普通じゃない部分」を持っています。その二つの部分を、僕らはうまく案配して操っていかなくてはならない。それが僕の基本的な考え方です。

僕の中には、日本人というものについて物語を書きたいという強い思いがあります。我々は今どこにいて、どこに向かおうとしているのか? それは僕にとってとても大事な問題だし、僕の書くもののひとつのテーマになっていると思います。

僕は細部がとても好きなんです。どうでもいいような細かい部分に目を注ぎたいんです。あなたは何かを凝視しようとする。あなたの焦点はどんどんその個別の部分に接近していく。接近すればするほど、ものごとはむしろ非リアリスティックになっていくのです。それが小説において僕のやりたいことです。事物は近くに寄れば寄るほどリアルさを失っていく。カフカの作品を読めばそれがよくわかります。それが僕のひとつのスタイルになっています。

僕は地震についての物語を書きたかったけれど、地震そのものについて、あるいは地震で直接の被害を負った人々について、物語を書くつもりはなかったということです。この本(上の子どもたちはみな踊る)の中で僕が描きたかったことは、地震の余波です。地震そのものではない。人々は世界中でつらい状況に置かれています。神戸だけではない。同じようなことがこの国中で、あるいは世界中で起こっているのです。

日本の「失われた十年間」、一九九五年から二〇〇五年は、この国にとって非常に重要な時期だったと思う。あの十年間でも、僕の大きなテーマは、日々のカオスと共存していくための土台を築くことでした。その土台にどんなものを築いていくのか、それが僕にとってのこれからの大きなテーマになっていくと思います。

なんのかんの言っても総体としてはすごいものを書きたいなあ。僕はそういう小説に「総合小説」という呼び名を付けてみたんです。僕の考える「総合小説」っていうのは、とにかく長いこと、とにかく重いこと。そしていろんな人物が、特異な人から普通の人まで次々に登場してきて、いろんな異なったパースペクティブが有機的に重ね合わされていく小説であること。いろんな話が出てきて、絡み合い一つになって、そこにある種の猥雑さがあり、おかしさがあり、シリアスさがあり、ひとつには括れないカオス的状況があり、同時にまた背骨をなす世界観がある。そんないろんな相反するファクターが詰まっている、るつぼみたいなものが、僕の考える総合小説なんですよ。

悪について

それはある意味では世間のほとんどの人が抱えている問題を増幅したものにすぎないわけです。人が抱え込んでいるものというか、それを抱え込まないことには存続し得ない要素を、小説的に増幅したにすぎないんですよね。「海辺のカフカ」のジョニー・ウォーカーにしてもカーネル・サンダースにしても、外界から来たものではなくて、あくまで人の内部から生まれ出てきたものです。それが増幅されてかたちをとったものです。

何が悪かーそれを定義するのは難しいことです。しかし何が危険かを説明することはおそらく可能です。その二つは往々にして重なっているかもしれません。

麻原はもちろんきわめて特殊な存在です。どう見ても狂った精神を持っています。しかし我々自身の中にも、やはり狂気や、正常ならざるものや、不適当なものはあるかもしれません。僕は自分の中の暗闇の中に存在するかもしれないそのようなものを、もっとよく見てみたいと感じました。

沈みきったものをすくい取る

現実的なものをすべて取り去ったあとに、脳に浮かびあがった記憶だけに頼って、あらためて情景を描写しています。このように生み出した情景は、現実に存在しているもの以上に現実性を獲得することができます。

昨日見て今日書けるというものではない。自分の中でいったん沈み切って、もう一回浮かんできたものをすくい上げるのがその素晴らしさで、そういうことができたとき、小説家になってよかったなと思う。物語もそこから開けてくるという感覚があるんだけど、でも、僕にとって大事なのは、自分の中で風景が浮かび上がって文章になる過程なんです。物語はむしろその過程の中にくっついてくる。

インテイクというのはそのとおりだと思います。でもそれは素材を取り入れるというようなこととは違うんです。感覚的に言えば、いろんなものが筋肉の中に侵みていくというのに近いです。

本質を抽出する

小説というのは、インテイクしたものを全部出しちゃいけないですよね。取り込んだものからいちばん大事な部分だけを抽出して使うというか、またある場合には思いそのものをすべて抱え込んで、呑み込んで、それとはまったく違うかたちでもって書くとか、そういう我慢がすごく大事な作業になります。

百のうち九十までは、自分では実際に体験したことのないことです。どのようなささやかな、日常的なことからでも、大きな、深いドラマを引き出していくのが、作家の仕事であると思います。小さな、日常的なものごとからその本質を抜き出し、その本質を別のものに―より強くカラフルなものに―置き換えていくわけです。それがフィクションです。


僕の小説も自分の心の中の抽斗をひとつひとつ開けて、整理すべきものは整理し、人々の共感を呼べるものをひとつ取り出し、文字で表現し、人様に見てもらえるような形にしていくのです。

小説家の役割はひとつひとつの意見を表明することよりはむしろ、それらの意見を生み出す個人的な基板や環境のあり方を、少しでも正確に(フランツ・カフカが奇妙な処刑機械をを異様なばかりに細密に描写したように)描写することではないか、というのが僕の考え方です。小説家にとって必要なものは個別の意見ではなく、その意見がしっかり拠って立つことのできる、個人的作話システムなのです。


結末はオープンであること

僕の仕事は人々と世界を観察することにあります。その価値を判断することにはない。何事によらず、僕はなるべく結論を出さないようにしようと努めて生きています。僕はすべてのものごとを可能な限りオープンな状態に保っておきたいのです。それをあらゆる可能性に向けて開かれた状態にしておきたい。

麻原の提供した物語のサーキットは抑圧的なものであり、堅く閉鎖されたものでした。真の物語のサーキットは基本的に自発的なものでなくてはならないし、常に外に向かって開かれていなくてはなりません。我々は麻原的なるものを拒否しなくてはならない。それが僕の書こうとしている物語の骨子であるかもしれません。

結末近くまでは、物語が僕を運んでくれるのですが、結末だけは自分で選ばなければなりません。それがゲームのルールです。僕が言いたいのは、それが最終的な結末ではないということです。それは変更可能なものです。結末はオープンです。結末は最終的なものではない。僕はいつもそう考えています。

今日、多くの場所で、閉じた世界がだんだん強くなってきています。原理主義、カルト、軍国主義。でも閉じた世界は武力では壊せません。壊してもシステム自体は、理念は、残ります。どこかよそへ場所を移すだけの話です。なしうるベストのことは、ただ語ってみせることです。開かれた世界の良い面を見せること。時間はかかりますが、長い目で見れば、開かれた世界のそういう開いた回路は、閉じた世界がなくなっても残ると思う。


書かない時期が大事

深夜のファミレスで女の子が一人で本を読んでいる。そこに男の子が入ってきて、彼女に目を止めて「ねぇ、誰々じゃない?」と言う。女の子は目を上げる。そういう短いシーンを何ということなく思いついてサーっと書く。これは何かに使えるかもしれないと思って、プリントアウトして一年くらい机の抽斗の中に入れていた。シーンみたいなものがひとつ頭に浮かんで、それを簡単なスケッチにしてメモしておきます。木炭の素描みたいなものです。ときどき何かの拍子にふっと浮かんできて、頭の中で繰り返し繰り返しリピート上映される。そんなことが一年間ぐらい続いた。どこから来たのかもわからないし、どこに行くのかもわからない。一年ちょっとぐらいして急に「そうだ、あれをもとにしてちょっと長いものを書いてみようか」という気持ちになりました。

メモとかスケッチとかを使って大きなものを書き始めるべき時期というのは、体感で自然にわかるんです。種をまいてから芽が出てくるまでに、一年かかるか二年かかるかわからないけど、その時期が来ると「あ、そうだ、そろそろあれで行こう」ということになる。抽斗をあけて、プリントアウトを取り出して、それをもとに長編小説を書き始める。大事なのはその時期を正確にとらえることなんです。小説を書くのって、逆説的な言い方になるんだけど、書かない時期が大事なんですよね。僕はそう思います。

小説家の作業にとっていちばん大事なのは、待つことじゃないかと思うんです。何を書くべきかというよりも、むしろ何を書かないでいるべきか。書く時期が問題じゃなくて、書かない時期が問題なんじゃないかと。小説を書いてない時期に、自分がどれだけのものを小説的に、自分の体内に詰め込んでいけるかということが、結果的にすごく大きな意味を持ってきますよね。待ち時間をたっぷりとって、闇がしっかりと満遍なく身体にしみこんだところで、初めて姿を現してくるんですよね。

自発性について

どんなに長い小説でも、最初はいくつかのプロットと、登場人物程度しかありません。いかなる設定も持たずに書き始め、ただただ日々書くことによってストーリーを発展させていく。まわりにあるすべての要素を日々吸い込み、それを自分の中で消化することによってエネルギーを得て、物語を自発的に前に進めていくのです。

大事なのは、きちんと底まで行って物語を汲んでくることで、物語を頭の中で作るようなことはしない。最初からプロットを組んだりもしないし、書きたくないときは書かない。僕の場合、物語はつねに自発的でなくてはならないんです。

僕が最初の読者となるので、これから起こることは知らないでいる必要があります。そうでなければ僕は「既に知っていることを書く」という作業に大いに退屈することになるでしょう。


自分を表現しない


小説を書きたいという人間は、小説はいかに書くべきかというところで読書体験とは別の思考をしますよね。僕にはそれがないんです。僕にとっては読書というのは純粋な悦びでしかなかった。

何かテーマがあってそれを表現するというよりは、自分の中にある物語的な土壌にどのようにうまく自分を染み込ませていくか。

僕は自分を表現しようと思っていない。自分の考えていること、たとえば自我の在り方みたいなものを表現しようとは思っていなくて、僕の自我がもしあれば、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我がそこに沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。


ストーリーについて


僕の本の主人公はたいていの場合、その人にとって重要な何かを探しています。物語の真の意味は、探そうとするプロセス、つまり探求の運動のうちにあるんです。主人公は、はじめとは別人になっています。重要なのはそのことなんです。

旅行をすることとと、小説を書くことは似通った体験でもあります。たとえどれだけ遠いところに行っても、深い場所に行っても、書き終えたときにはもとの出発点に戻ってこなくてはならない。それが我々の最終的な到達点です。しかし我々が戻ってきた出発点は、我々が出て行ったときの出発点ではない。風景は同じ、人々の顔ぶれも同じ、そこに置かれているものも同じわけです。しかし何かが大きく違ってしまっている。そのことを我々は発見するわけです。

最初にひとつのイメージがあり、僕はそこにあるひとつの断片を別の断片に繋げていきます。それがストーリーラインです。それから僕はそのストーリーラインを読者に向かってうまく呑み込ませる。簡易な言葉と、良きメタファー、効果的なアレゴリー。それが僕の使っているヴォイスというか、ツールです。


どういうストラクチャーで、誰が出てくる、どういう結論にする、そういうプランはまったくありません。ただその出だしのシーンだけがあって、それだけをもとにして書き始める。短編小説って、もっと幾つかのヒントがないと書けないんです。しかし長編の場合、キーポイントがあったらむしろ縮こまって書けなくなっちゃう。もっと自由でありたい。

最初のチャプターを書き終えて、次のチャプターに取りかかるときに、さあ次はどこへ行こうかと、その時点で考える。それはまったく違う場所で、違う人によって行われていることでなくてはならない。

世界中のすべての神話がそういう構造になっていますよね。主人公が試練を進んで引き受けるとき、その主人公を助けるものが必ずどこかから出てきます。でも、そういう援助の役割を引き受けるのは、アウトサイダーじゃなくちゃいけないんです。社会の本流からは受け入れられないものでなくてはいけない。

ひとつひとつの局面において彼女がどのような反応をし、どのような行動をとるかということがつかめてさえいれば、小説的にはそれでいいわけです。小説における人物というのは、あるいは現実世界においてもそうなのかもしれないけれど、そういうところで成り立っているわけです。

小説の登場人物たちは決まって彼らの抱える問題を乗り越える方法を見つける。ただ底に至るまでには、苦しんだり、暗闇や、悪や、奇妙なことにも、暴力を含むような出来事にも、立ち向かわなければならない。僕の物語はだいたいこの考えでまとめられるでしょう。


共感について

小説というのは一種の共感装置だから、ようするに共感を呼べばいい。

時代は変わっても、人間が本当に深いところで悩んだり迷ったりする部分は変わらないんです。

本当に暗いところ、本当に自分の悪の部分まで行かないと、そういう共感は生まれないと僕は思うんです。もし暗闇の中に入れたとしても、いい加減なところで、少し行ったところで適当に切り上げて帰ってきたとしたら、なかなか人は共感してくれない。

書くことによって、多数の地層からなる地面を掘り下げているんです。この深みに達することができれば、みんなとの共通の基層に触れ、読者と交流することができる。つながりが生まれるんです。

視点について

僕の書くほとんどの小説は一人称で書かれています。主人公の主要な役目は、彼のまわりで起こっていることを観察することです。彼は彼が見なくてはならないものを、あるいは見るように求められているものを、リアルタイムで目にします。彼は中立的な立場にいます。その中立性を保持するためには、彼は肉親から離れていなくてはなりません。縦型の家族組織から独立した場所にいなくてはならないのです。僕は自分の小説の主人公を独立した、混じりけなく個人的な人間として描きたかったのです。彼は親密でパーソナルな絆よりは、むしろ自由と孤独を選んだ人間なのです。

三人称で押し切っていくと、なんかいかにも作家みたいというか、神様が上から見て、こいつがこっち行って、あいつはそっちに行かせてというふうに、作中人物たちの行動を動かしていくって、上からの目線という感じがすごくした。一人称だと自分目線で動けるから、わりと地面に近い感覚でいられる。だから僕はデビューの時からずっと一人称で書いていた。自分の視点をちょっと変えるだけで、物語のパースペクティブ(視点、物事の見方)も次々に移していける。

映画監督がカメラを移動するように、主人公がこちらを向いたらこういうパースペクティブ、そちらを向いたらそういうパースペクティブと思うように移動できたし、そういう手法は僕の書く物語に合っていたと思うんだけど、だんだんそれだけでは足りないんじゃないか、という気持ちが生まれてきた。

登場人物にずっと名前を付けなかったこととも同じ話だと思う。というのも、登場人物に名前を付けないと、単純に、たとえば三人の会話って書けないわけですよ。一人称で登場人物に名前がないと、主人公と相手という二人の会話まではできても、三人寄ると会話ができなくなっちゃう。それは明らかに小説の限界になりかねないわけで、そのへんからやはり名前を付けなくちゃなと考え始めた。


小説と音楽とのつながり

良い音楽を演奏するのと同じように、小説を書けばそれでいいんじゃないかと。良き音楽が必要とするのは、良きリズムと、良きハーモニーと、良きメロディー・ラインです。文章だって同じことです。そこになくてはならないのは、リズムとハーモニーとメロディーだ。僕の文章にもし優れた点があるとすれば、それはリズムの良さと、ユーモアの感覚じゃないかな。たとえば僕はエルヴィン・ジョーンズのドラミングが好きです。シンバルがアンカーの役目を果たしています。とても安定していて、とてもソリッドです。そしてそのあいだ両腕はクレイジーに動き回っている。ワイルドなことをやりまくっている。それでもシンバルはしっかりとひとつの場所に留まっています。僕がやりたいのは、言うなればそういうことです。


たくさんのことを音楽から学んだし、その体験は小説を書く上でとても役に立っていると思います。その方法論を小説の中にそのまま持ち込んでいる、ということもできるかもしれない。たとえば・・・リズムの重要性、インプロヴィゼーションの楽しさ、聴衆とのあいだに共振性を確立することの大切さ。これはメタファーではありません。僕にとって、文章を書くことと、音楽を演奏することはそのまま空中で、文字通り直結していることなのです。


短編小説について

集中して短編小説を書こうとする場合、書く前にポイントを二十くらいつくって用意しておきます。何でもいいんです。なるべく意味のないことがいい。たとえば、「サルと将棋を指す」とか「靴が脱げて地下鉄に乗り遅れる」とか「五時のあとに三時が来る」とか。そうやって脈絡なく頭に思い浮かんだことを書き留めておくんです。リストにしておく。それで短編を五本書くとしたら、そこにある二十の項目の中から三つを取り出し、それを組み合わせて一つの話をつくります。そうすると五本分で十五項目を使うわけですよね。そして残った五つは、使わなかったものとして捨てる。いつも多かれ少なかれそういうやり方で短編を書きます。

そういう二十のポイントが必然的なものとして水面に浮かび上がってくるのは、やはり四年のあいだ短編小説を書いていないからですよね。タメがあるから、そういうのが自発的に出てくるんです。ある程度の時間、無意識の中に自分をとっぷりと沈めておかないと、僕のシステムはうまく機能しない。正しい時期が来ていないのに、意識の明かりの中に持ちだしちゃうと、持ち出されたものはすぐに枯れてしまうんです。モヤシと同じように、床下で養分をじゅうぶん与えて成長させて、正しい時期が来たときに蓋を開けなくてはならない。だから、いつ時期が来るかを見定めるのが重要です。タイミングを見る才覚というか、スキルというか。タイミングがほとんどすべてです。


短編小説の師をあげるとするならば、それはフィッツジェラルド、カポーティ、カーヴァーの三人である。

カポーティから学んだのは、短編小説においては文章というものが「妖しくなくてはならない」ということです。ちょっと下品な言葉で言えば読者を「こます」文章でなくてはならないということですね。頭で考えたような文章では読者はこませない。身体の奥の方からじわっと出てくる何かがないとだめだということです。フェロモンが適当に出てないと、短編小説の世界にはなかなか人をひきずりこめない。短編って一発勝負だから、その世界にすっと人を引きずり込めなかったら、どうしようもないです。

フィッツジェラルドから学んだことは、フェロモンは出ていなくてはならないんだけど、それが下品なかたちであってはならないということです。「とにかくフェロモンが出てりゃいいんだろう」みたいなことになってはいけない。そこには優しさと哀しみのようなものがなくてはならないし、書き手の視線は基本的にできるだけ遠くを見ていなければならないということです。短編小説というと「細部、細部」みたいなことになりがちだけど、フィッツジェラルドの優れた短編を読み終えて目を上げると、遠くの風景がふっと前に浮かび上がってくるんです。そういう小説の志が感じられる作品は、読んだ人の心に長く残ります。

カーヴァーから僕が強く感じたのは、「偉そうじゃない」こと。立派なこと、偉そうなことを書かなくても、書くべきことをきちんと書いていれば、それで立派な小説になるんだということ。

短編小説というのは「うまくて当たり前」の世界です。その上で何を提供できるか、ということが主題になります。他の人には書けない、その人でなくては書けない「実のある何か」がそこにくっきりと浮かび上がってきて、今まで見たことのないような情景がそこに見えて、不思議な声が聞こえて、懐かしい匂いがして、はっとする手触りがあって、そこで初めて「うん、こいつは素晴らしい短編小説だ」ということになります。

うまくなくてはならないけど、その中ではとくべつうまくなくてもいい、というのが優れた短編小説の定義かもしれない。僕の個人的な好みは「ばらけかけているんだけど、あやういところでばらけていなくて、その危うさがなんともいえずいい」という感じの作品です。



読書体験について

僕の教養体験はほとんど十九世紀のヨーロッパ小説なんです。ドストエフスキーから、スタンダールから、バルザックから。ディケンズなんかもそう。

十八歳のころ、僕は十九世紀ヨーロッパの古典を読んでいました。主にトルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、バルザック、フロベール、ディケンズです。そしてハードボイルドとサイエンス・フィクションの世界を発見し、レイモンド・チャンドラー、カート・ヴォネガット、リチャード・ブローティガン、スコット・フィッツジェラルドを発見した。僕の教養の基礎は、古典とポップカルチャーにつながる文学との混淆なんですよね。

僕は大学生のとき、カート・ヴォネガットやリチャード・ブローティガンを読むのが好きだった。彼らはたしかなユーモアのセンスを持っています。そしてそれと同時に何かシリアスなものごとを書こうとしている。僕はそういう本が好きなんです。

ジョン・アーヴィング、レイモンド・カーヴァー、ティム・オブライエン・カーヴァーの短編を読んだときは衝撃だったな。短編の書き方については、カーヴァーから何かを教わりましたね。彼が短編を通して言っていたのは、小説を書くには知的でないといけないけれど、書く素材は知的である必要はないということだと思う。アーヴィングからは長編の書き方について教わるところがありましたね。ああいうパワフルなストーリーテリングの声を。小さな、現実的なことじゃないんです。大きなことです。作者の息づかいとか、パースペクティヴ、知覚とか。翻訳すると、そういうものが感じられるんです。

カーヴァーやオブライエンの場合、時に非理性的になります。僕はどうも、物事がぐちゃぐちゃの方が居心地がいいみたいです。そういう世界の方が好きなんです。

カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」。彼は僕が最も高く評価する同世代の作家の一人です。上手なだけではなく魂がこもっている。新作が出たらすぐに買いに行って読みます。

僕にとっての総合小説というのは、たとえば、ティム・オブライエンの「ニュークリア・エイジ」がそういうものですね。あの小説のばらけ方と、ばたけることによって出てくる広がり。それからテーマがやたらと大きいこと。総合小説っていうのは、細部の出来よりは、全体のモーメントがものを言います。とにかくテーマがでかくないと面白くないですよね。

音楽について

もっとも頻繁にターンテーブルに載せるミュージシャンは誰かと尋ねられれば、それはマイルズ・デイヴィスになると思います。五十年代から六十年代のマイルズのレコードですね。

「ペット・サウンズ」とか「スマイル」は年に一回ぐらいは聴き返さなくてはいられない。どうしてそんなに何度も聴き返したくなるかというと、僕は思うんだけど、ブライアン・ウィルソンの音楽の中には、空白と謎がなおも潜んでいるからです。そしてその空白と謎は、ブライアン自身の中に潜んでいる空白と謎に、有機的に呼応しているからなんです。それが僕の言う「物語性」です。