村上春樹インタビュー集

「地下室」について

人間の存在というのは二階建ての家だと思ってるわけです。一階は人がみんなで集まってごはん食べたり、テレビ見たり、話したりするところです。二階には個室や寝室があって、そこに行って一人になって本を読んだり、音楽を聴いたりする。そして地下室があって、特別な場所でいろんなものが置いてある。ときどき入ってぼんやりする。その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。

それは入るのが難しい場所です。運が良ければあなたは扉を見つけて、この暗い空間に入っていくことができるでしょう。そこでは、奇妙なものをたくさん目撃できます。目の前に、形而上学的な記号やイメージや象徴がつぎつぎに現れるんですから。それはちょうど夢のようなものです。

本を書くとき僕は、こんな感じの暗くて不思議な空間の中にいて、奇妙な無数の要素を眼にするんです。それは象徴的だとか、形而上学的だとか、メタファーだとか、シュールレアリスティックだとか、言われるんでしょうね。こうした要素が物語を書くのを助けてくれます。作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見てるようなものです。それは、論理をいつも介入させられるとは限らない、法外な経験なんです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。

セックスは鍵です。夢と性はあなた自身のうちへと入り、未知の部分をさぐるための重要な役割を果たします。そうした場面は、先ほどお話しした隠れ扉を、読者が自分で開くことを可能にしてくれるからです。僕は読者の精神を揺さぶり、震わせることで、読者自身の秘密の部分にかかった覆いをとりのぞきたい。それでこそ、読者と僕の間に、何かが起きるんです。

小説を書いているとき、僕は暗い場所に、深い場所に下降します。井戸の底か、地下室のような場所です。そこには光がなく、湿っていて、しばしば危険が潜んでいます。その暗闇の中に何がいるのか、それもわかりません。それでも僕はその暗闇の中に入って行かなくてはならない。なぜならそれこそが、小説を書いているときに僕がいる場所だからです。僕はそこで善きものに巡り会い、悪しきものに巡り会い、ときには危険に遭遇します。そしてそれらを文章で描写します。僕の小説に登場する悪しき人格は、その暗闇の中で巡り会った人々です。僕は彼らの存在を感じることができます。彼らの息づかいを感じることができます。ときには寒気のようなものを感じることもあります。僕はそれをできるだけ正直に描写しなくてはならない。それが何を意味するのかはわからないけれど、そういうものがそこにあることを僕は感じるのです。

夢を見ているのと同じ

フィクションを書くのは、夢を見ているのと同じです。夢を見るときに体験することが、そこで同じように行われます。あなたは意図してストーリー・ラインを改変することはできません。ただそこにあるものを、そのまま体験してくしかありません。我々フィクション・ライターはそれを、目覚めているときにやるわけです。夢を見たいと思っても、我々には眠る必要はありません。我々は意図的に、好きなだけ長く夢を見続けることができます。書くことに意識が集中できれば、いつまでも夢を見続けることができます。今日の夢の続きを明日、明後日と継続して見ることもできる。これは素晴らしい体験ではあるけれど、そこには危険性もあります。夢を見る時間が長くなれば、そのぶん我々はますます深いところへ、ますます暗いところへと降りていくことになるからです。その危険を回避するためには、訓練が必要になってきます。あなたは肉体的にも精神的にも、強靭でなくてはなりません。それが僕のやっている作業です。


もし悪夢を見れば、あなたは悲鳴を上げて目覚めます。でも書いているときにはそうはいきません。目覚めながら見ている夢の中では、我々はその悪夢を、そのまま耐えなくてはなりません。ストーリー・ラインは自立したものであり、我々には勝手にそれを変更することはできないからです。我々はその夢が進行するままを、眺め続けなくてはなりません。つまりその暗闇の中で自分がどこに向かって導かれていくのか、僕自身にもわからないのです。

強い精神力が必要

物語を自分の中に見出し、それを引きずり出してかたちにすることは、作家にとっては時として危険です。走ることは、僕がその危険を避ける助けになっています。

誰でもきっと自分の想像世界を魂の中に持っているはずです。しかしそちらの世界へ行き、特別な入り口を見つけ、中に入って行って、それからまたこちらにもどってくるのは、決して簡単なことではありません。ただある種のドアを開けることができ、その中に入って、暗闇の中に身をおいて、また帰ってこられるという特殊な技術がたまたま具わっていたということだと思います。


作家が物語を立ち上げるときには、自分の内部にある毒と向き合わなくてはなりません。そうした毒を持っていなければ、できあがる物語は退屈で凡庸なものになるでしょう。僕の物語は、僕の意識の暗くて危険な場所にあり、心の奥に毒があるのも感じますが、僕はかなりの量の毒を処理することができます。それは僕に強い肉体があるからです。

物語を得るためには、僕はその源を探して掘り進めなくてはなりません。僕の心の暗い場所に物語が潜んでいて、そのすごく深いところまで掘っていかなくてはならないのです。そのためにも、肉体的に強くあることが必要になります。暗いところまで行き着くためには、何時間も集中しなくてはなりません。その途中で僕はさまざまなものごとに遭遇します。もし肉体的に弱ければ、そうしたものを時として得そびれてしまうでしょう。

フィクションが強制的に、僕をもうひとつの部屋に連れ込むのです。そこはとても暗く静かで、僕は多くの奇妙なもの、野性的なもの、シュールリアリスティックなものの目撃者となります。書くときに、僕は自分の精神の奥底へ潜っていく。深く潜れば潜るほど、危険が生じます。そこに生起する生き物やイメージや音に対抗するためには、強くなくてはなりません。恐怖の扉をあえて開ける勇気が必要なんです。


自分の魂の不健全さというか、歪んだところ、暗いところ、狂気を孕んだところ、小説を書くためにはそういうのを見ないと駄目だと思います。そのたまりみたいなところまで実際に降りていかないといけない。でも、そうするためには健康じゃなくちゃいけない。肉体が健康じゃなければ、魂の不健全なところをとことん見届けることができない。


向こう側の世界と、こちら側の世界

向こう側の世界と、こちら側の世界。そういう二つの世界の相関関係というのは、僕にとってはすごく大きなテーマで、多かれ少なかれ、どの本にも出てくるんです。

「雨月物語」なんかにあるように、現実と非現実がぴたりときびすを接するように存在している。そしてその境界を超えることに人はそれほどの違和感を持たない。これは日本人の一種のメンタリティーの中に元来あったことじゃないかと思うんですよ。

中上健次さんも「雨月」を範に取ったものを書いていらっしゃる。物語の再生みたいな意識があの人の中にはあったと思うんです。僕の場合は、物語のダイナミズムというよりは、むしろそういう現実と非現業の境界のあり方みたいなところにいちばん惹かれるわけです。

僕の小説には現実の世界と、現実ではない世界の間を行き来する部分がよく出てきますが、そのとき人は一度自分の組成をすっかり壊さなくちゃいけない。質量を失って、ひとつの原理にならないといけない。そうしないと向こう側にはいけない。

僕は思うんだけど、人には「原理になってしまいたい」という欲求があるんじゃないのかな。肉体を失って原理になってしまいたい。「壁抜け」というのはそういう意味においても可能なんです。原理というよりは、むしろvoid=虚空という方に近いかもしれない。人間存在の核はvoidであるという方が、僕の論点には合っているかもしれませんね。我々は結局のところvoidに付着している表象スタイルの総合体に過ぎないのだと。

新しい価値観をつくる

僕らは今、途方に暮れている。僕らは戦争が終わってからずっと、実に勤勉に働いてきました。脇目もふらずに働いた。そして国は復興を遂げ、だんだん豊かになっていった。そして安定した状態に至った。これで一安心。でもそこで僕らは自分自身に問いかけることになりました。さて、我々はどこにたどり着いたのか? これからどこに行くのか? 我々はいったい何ものなのか? でもクリアな答えはない。これは一種の自己喪失のようなものです。

そろそろ新しい価値観を作るべき時期だと思うんです。それも、偉そうなものじゃなく、ありきたりのもので作っていく時期が。とにかく冷蔵庫にあるものでなんとかする。これからはそういう時代だと思うし、僕もそういうことをやっていきたいという気がしているんです。僕としては小さいものごとを集めることで、大きな物語を作っていきたいと思っています。正面からボンと大きなことを言うんじゃなくて。

労働は豊かさをもたらし、豊かさは幸福をもたらす、と考えられていたんです。僕らは豊かになったんです。ただし、いまだに幸福を見つけられずにいた。僕らはどこかで自分を見失ってしまったと感じており、自分たちの価値や特性をふたたび問い直さなければなりませんでした。「幸せになること」が、新たな信仰箇条となったんです。いま僕たちには、じっくりと考える時間がある。つまり、別の道を見出すための時間が。

物語を体験するというのは、他人の靴に足を入れることです。世界には無数の異なった形やサイズの靴があります。そしてその靴に足を入れることによって、あなたは別の誰かの目を通して世界を見るようになる。そのように善き物語を通して、真剣な物語を通して、あなたは世界の中にある何かを徐々に学んでいくことになります。

自分たちは比較的健康な世界に生きている、とみんな信じています。僕が試みているのは、こうした世界の感じ方や見方を揺さぶることです。僕たちは、ときに、混沌、狂気、悪夢の中に生きています。僕は、読者がシュールレアリスティックな世界、暴力や不安や幻覚の世界に潜ってゆくようにしたい。そうすることによって、人は自分の中に新しい自分を見出せるかもしれません。

我々は多くの場合、メディアを通して世界を眺め、メディアの言葉を使って語っているのです。そのような出口のない迷宮に入り込むことを回避するためには、ときとして我々はたった一人で深い井戸の底に降りていくしかありません。そこで自分自身の視点と、自分自身の言葉を回復するしかないのです。

一九九五年は象徴的な年でした。バブル崩壊と重なって、そのあと規範みたいなものが急速に失われていった。そして旧来のものに代わる新しい価値体系がまだ見つけられていない。

小説を書くことについて

小説を書き出して、毎日毎日休みなくこつこつとそれを書き続けます。するとそのうちに、暗黒のようなものが訪れてきます。そして僕にはその中に入って行く準備ができている。でもそういう段階に達するためには、時間が必要です。今日書き出して、明日にはもうその中にすっと入れるというものではありません。

僕自身が最も理想的だと考える表現は、最も簡単な言葉で最も難解な道理を表現することです。

人が孤独に、しかも十全に生きていくのはどうすれば可能か。三十歳になる前後というのは迷う頃だし、自分にとって人生の価値とは何なのかを真剣に考える時期で、僕の語る物語を求めるのは、やっぱりそういう人たちなんじゃないかという気がするんです。

人間が孤独に生きながら、いかに社会との接点を見つけて自分の人生の方向を見出していくかということを、真剣に考える年齢というものに、やっぱり呼応している。

説明するんじゃなくて、子どもに受け入れられるような言葉で、いちいち具体的に描写するんです。お人形の手紙というかたちをとって、架空の世界をそこにどんどん立ち上げていくんです。僕もそういう立ち上げ作業って大好きですね。架空を実在にまで持っていく。

「息の長い細密な描写力を身につけなくてはならない」というのは、僕にとっての命題として残った。立ち上げというのは難しいんですね。どれくらいリアルに細密に立ち上げられるかというのは。要するに、描写力なんです。

ノンフィクションは事実を尊重します。でも僕の本はそうではありません。僕はナラティブ(物語)を尊重します。それは生き生きとしたものであり、鮮やかなものです。それは正直なナラティブです。僕が集めたかったのはそういうものなのです。彼らの語ったことはすべて真実である必要はありません。もし彼らがそれを真実だと感じたのなら、それは僕にとっても正しい真実なのです。事実と真実とは、ある場合には別のものです。

僕はできるだけ意味性を取り払いたかった。カタカナで名前を付ければ、その名前はより匿名性を獲得することになります。シンボルや、記号に近いものになります。ちょうどフランツ・カフカが「審判」の主人公にヨーゼフ・Kという名前を付けたのと同じように。その人物の名前がKであることで、それが「誰でもあり得る」ことが示されています。それはあなたかもしれないし、僕かもしれない。シンボライズされたメッセージです。

ユーモアというものは、僕の小説の中でも、きわめて大きな役割を果たしています。本当の意味での「シリアスさ」は笑いの要素がなくては成立しないのではないかとさえ思います。(楽しさの中で学ぶ)


「ギャツビー」の魔法の力は、不完全さにあるのだと思うようになりました。前後の脈絡のずれた長いセンテンス、設定のある種の過剰さ、登場人物のふるまいに時おり見られる一貫性の欠如。この小説が持っている美しさは、そういうもろもろの不完全さの積み重ねに支えられているんです。


「少なくとも最後まで歩かなかった」、墓石にそう刻んでもらいたい。

井戸が示しているのは、たとえとても深い穴の中に落ちてしまったとしても、全力を振り絞って臨めば堅い壁を通り抜け、再び光のもとに帰れるということです。語っている物語が力を備えさえすれば、主人公と書き手と読者は共に「ここではない世界」へと到達できる。そこは元の世界でありながら、旧来とは何かが違う世界です。

例えば「海辺のカフカ」だったら一日十枚ぐらいのペースで書きました。規則正しくきちっと決めて書いていって、半年で仕上げてそのときは千八百枚、それに手を入れながら削っていって千六百枚にした。

「注文を受けては小説を書かない」というのは、ほとんど最初から通していることです。締め切りができちゃうと、ものを書く喜びがなくなっちゃうから。自発性も消えてしまうし。

物語について

僕の考える物語というのは、まず人に読みたいと思わせ、人が読んでも楽しいと感じるかたち、そういう中でとにかく人を深い暗闇の領域に引きずり込んでいける力を持ったものです。できるだけ簡単な言葉で、できるだけ深いものごとを、小説というかたちでしか語れないことを語りたい。

計算して書いたら、計算して書いた、という話にどうしてもなっちゃう。手探りして進みながら、自然に顔をのぞかせるものを、するっと素早く引っぱり出していくのが物語です。

地形によって水の流れが自動的に決まってしまうとの同じように。作家というのは基本的にその道筋をたどっていけばいいわけです。流れを理解すればそれでいい。物語というのは、僕にとっては質量のない絶対原理であって、僕はそれを言語的に書き換えているだけです。

何度読み返したところで、わからないところ、説明のつかないところって必ず残ると思うんです。物語というのはもともとがそういうもの、というか、僕の考える物語というのはそういうものだから。物語というのは、物語というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための、代替のきかないヴィークルなんです。極端な言い方をすれば、ブラックボックスのパラフレーズにすぎないんです。

「ペット・サウンズ」とか「スマイル」は年に一回ぐらいは聴き返さなくてはいられない。どうしてそんなに何度も聴き返したくなるかというと、僕は思うんだけど、ブライアン・ウィルソンの音楽の中には、空白と謎がなおも潜んでいるからです。そしてその空白と謎は、ブライアン自身の中に潜んでいる空白と謎に、有機的に呼応しているからなんです。それが僕の言う「物語性」です。

物語というのは、たとえ見栄えが悪く、スマートでなくても、もしそれが正直で強いものであれば、きちんとあとまで残る。

我々小説家がやるべきことはおそらく、そういった(深い井戸の底に降りていくような)「危険な旅」の熟練したガイドになることです。そしてまたある場合には読者に、そのような自己探索作業を、物語の中で疑似体験させることです。僕にとって物語とは、さまざまな特別な機能を持ったパワフルな乗り物なのです。

美しい文体や知的な筋に価値はあるけれど、最終的に重要なのは、次々に起こる何かを読者に期待させることなのです。次の展開がどうなるのか読者が想像せずにはいられない。それが優れた物語です。言語や国境を越えて。

小説の中で描きたいこと

僕が個人的に興味を持っているのは、人間が自分の内側に抱えて生きているある種の暗闇のようなものです。その暗闇の中ではいろんなことが、あらゆることが、起こります。僕はそれらのものごとをしっかりと観察し、物語というかたちで、そのままリアルに描きたいのです。解析したり、説明したりするのではなく。

僕が、僕の小説の中で描きたかったことのひとつは、「深い混沌の中で生きていく、個人としての人間の姿勢」のようなものだった。

すべての人間は心の内に病を抱えています。その病は、我々の心の一部なのです。僕らは意識の中に「正常な部分」と「普通じゃない部分」を持っています。その二つの部分を、僕らはうまく案配して操っていかなくてはならない。それが僕の基本的な考え方です。

僕の中には、日本人というものについて物語を書きたいという強い思いがあります。我々は今どこにいて、どこに向かおうとしているのか? それは僕にとってとても大事な問題だし、僕の書くもののひとつのテーマになっていると思います。

僕は細部がとても好きなんです。どうでもいいような細かい部分に目を注ぎたいんです。あなたは何かを凝視しようとする。あなたの焦点はどんどんその個別の部分に接近していく。接近すればするほど、ものごとはむしろ非リアリスティックになっていくのです。それが小説において僕のやりたいことです。事物は近くに寄れば寄るほどリアルさを失っていく。カフカの作品を読めばそれがよくわかります。それが僕のひとつのスタイルになっています。

僕は地震についての物語を書きたかったけれど、地震そのものについて、あるいは地震で直接の被害を負った人々について、物語を書くつもりはなかったということです。この本(上の子どもたちはみな踊る)の中で僕が描きたかったことは、地震の余波です。地震そのものではない。人々は世界中でつらい状況に置かれています。神戸だけではない。同じようなことがこの国中で、あるいは世界中で起こっているのです。

日本の「失われた十年間」、一九九五年から二〇〇五年は、この国にとって非常に重要な時期だったと思う。あの十年間でも、僕の大きなテーマは、日々のカオスと共存していくための土台を築くことでした。その土台にどんなものを築いていくのか、それが僕にとってのこれからの大きなテーマになっていくと思います。

なんのかんの言っても総体としてはすごいものを書きたいなあ。僕はそういう小説に「総合小説」という呼び名を付けてみたんです。僕の考える「総合小説」っていうのは、とにかく長いこと、とにかく重いこと。そしていろんな人物が、特異な人から普通の人まで次々に登場してきて、いろんな異なったパースペクティブが有機的に重ね合わされていく小説であること。いろんな話が出てきて、絡み合い一つになって、そこにある種の猥雑さがあり、おかしさがあり、シリアスさがあり、ひとつには括れないカオス的状況があり、同時にまた背骨をなす世界観がある。そんないろんな相反するファクターが詰まっている、るつぼみたいなものが、僕の考える総合小説なんですよ。

悪について

それはある意味では世間のほとんどの人が抱えている問題を増幅したものにすぎないわけです。人が抱え込んでいるものというか、それを抱え込まないことには存続し得ない要素を、小説的に増幅したにすぎないんですよね。「海辺のカフカ」のジョニー・ウォーカーにしてもカーネル・サンダースにしても、外界から来たものではなくて、あくまで人の内部から生まれ出てきたものです。それが増幅されてかたちをとったものです。

何が悪かーそれを定義するのは難しいことです。しかし何が危険かを説明することはおそらく可能です。その二つは往々にして重なっているかもしれません。

麻原はもちろんきわめて特殊な存在です。どう見ても狂った精神を持っています。しかし我々自身の中にも、やはり狂気や、正常ならざるものや、不適当なものはあるかもしれません。僕は自分の中の暗闇の中に存在するかもしれないそのようなものを、もっとよく見てみたいと感じました。

沈みきったものをすくい取る

現実的なものをすべて取り去ったあとに、脳に浮かびあがった記憶だけに頼って、あらためて情景を描写しています。このように生み出した情景は、現実に存在しているもの以上に現実性を獲得することができます。

昨日見て今日書けるというものではない。自分の中でいったん沈み切って、もう一回浮かんできたものをすくい上げるのがその素晴らしさで、そういうことができたとき、小説家になってよかったなと思う。物語もそこから開けてくるという感覚があるんだけど、でも、僕にとって大事なのは、自分の中で風景が浮かび上がって文章になる過程なんです。物語はむしろその過程の中にくっついてくる。

インテイクというのはそのとおりだと思います。でもそれは素材を取り入れるというようなこととは違うんです。感覚的に言えば、いろんなものが筋肉の中に侵みていくというのに近いです。

本質を抽出する

小説というのは、インテイクしたものを全部出しちゃいけないですよね。取り込んだものからいちばん大事な部分だけを抽出して使うというか、またある場合には思いそのものをすべて抱え込んで、呑み込んで、それとはまったく違うかたちでもって書くとか、そういう我慢がすごく大事な作業になります。

百のうち九十までは、自分では実際に体験したことのないことです。どのようなささやかな、日常的なことからでも、大きな、深いドラマを引き出していくのが、作家の仕事であると思います。小さな、日常的なものごとからその本質を抜き出し、その本質を別のものに―より強くカラフルなものに―置き換えていくわけです。それがフィクションです。


僕の小説も自分の心の中の抽斗をひとつひとつ開けて、整理すべきものは整理し、人々の共感を呼べるものをひとつ取り出し、文字で表現し、人様に見てもらえるような形にしていくのです。

小説家の役割はひとつひとつの意見を表明することよりはむしろ、それらの意見を生み出す個人的な基板や環境のあり方を、少しでも正確に(フランツ・カフカが奇妙な処刑機械をを異様なばかりに細密に描写したように)描写することではないか、というのが僕の考え方です。小説家にとって必要なものは個別の意見ではなく、その意見がしっかり拠って立つことのできる、個人的作話システムなのです


結末はオープンであること

僕の仕事は人々と世界を観察することにあります。その価値を判断することにはない。何事によらず、僕はなるべく結論を出さないようにしようと努めて生きています。僕はすべてのものごとを可能な限りオープンな状態に保っておきたいのです。それをあらゆる可能性に向けて開かれた状態にしておきたい。

麻原の提供した物語のサーキットは抑圧的なものであり、堅く閉鎖されたものでした。真の物語のサーキットは基本的に自発的なものでなくてはならないし、常に外に向かって開かれていなくてはなりません。我々は麻原的なるものを拒否しなくてはならない。それが僕の書こうとしている物語の骨子であるかもしれません。

結末近くまでは、物語が僕を運んでくれるのですが、結末だけは自分で選ばなければなりません。それがゲームのルールです。僕が言いたいのは、それが最終的な結末ではないということです。それは変更可能なものです。結末はオープンです。結末は最終的なものではない。僕はいつもそう考えています。

今日、多くの場所で、閉じた世界がだんだん強くなってきています。原理主義、カルト、軍国主義。でも閉じた世界は武力では壊せません。壊してもシステム自体は、理念は、残ります。どこかよそへ場所を移すだけの話です。なしうるベストのことは、ただ語ってみせることです。開かれた世界の良い面を見せること。時間はかかりますが、長い目で見れば、開かれた世界のそういう開いた回路は、閉じた世界がなくなっても残ると思う。


書かない時期が大事

深夜のファミレスで女の子が一人で本を読んでいる。そこに男の子が入ってきて、彼女に目を止めて「ねぇ、誰々じゃない?」と言う。女の子は目を上げる。そういう短いシーンを何ということなく思いついてサーっと書く。これは何かに使えるかもしれないと思って、プリントアウトして一年くらい机の抽斗の中に入れていた。シーンみたいなものがひとつ頭に浮かんで、それを簡単なスケッチにしてメモしておきます。木炭の素描みたいなものです。ときどき何かの拍子にふっと浮かんできて、頭の中で繰り返し繰り返しリピート上映される。そんなことが一年間ぐらい続いた。どこから来たのかもわからないし、どこに行くのかもわからない。一年ちょっとぐらいして急に「そうだ、あれをもとにしてちょっと長いものを書いてみようか」という気持ちになりました。

メモとかスケッチとかを使って大きなものを書き始めるべき時期というのは、体感で自然にわかるんです。種をまいてから芽が出てくるまでに、一年かかるか二年かかるかわからないけど、その時期が来ると「あ、そうだ、そろそろあれで行こう」ということになる。抽斗をあけて、プリントアウトを取り出して、それをもとに長編小説を書き始める。大事なのはその時期を正確にとらえることなんです。小説を書くのって、逆説的な言い方になるんだけど、書かない時期が大事なんですよね。僕はそう思います。

小説家の作業にとっていちばん大事なのは、待つことじゃないかと思うんです。何を書くべきかというよりも、むしろ何を書かないでいるべきか。書く時期が問題じゃなくて、書かない時期が問題なんじゃないかと。小説を書いてない時期に、自分がどれだけのものを小説的に、自分の体内に詰め込んでいけるかということが、結果的にすごく大きな意味を持ってきますよね。待ち時間をたっぷりとって、闇がしっかりと満遍なく身体にしみこんだところで、初めて姿を現してくるんですよね。

自発性について

どんなに長い小説でも、最初はいくつかのプロットと、登場人物程度しかありません。いかなる設定も持たずに書き始め、ただただ日々書くことによってストーリーを発展させていく。まわりにあるすべての要素を日々吸い込み、それを自分の中で消化することによってエネルギーを得て、物語を自発的に前に進めていくのです。

大事なのは、きちんと底まで行って物語を汲んでくることで、物語を頭の中で作るようなことはしない。最初からプロットを組んだりもしないし、書きたくないときは書かない。僕の場合、物語はつねに自発的でなくてはならないんです。

僕が最初の読者となるので、これから起こることは知らないでいる必要があります。そうでなければ僕は「既に知っていることを書く」という作業に大いに退屈することになるでしょう。


自分を表現しない


小説を書きたいという人間は、小説はいかに書くべきかというところで読書体験とは別の思考をしますよね。僕にはそれがないんです。僕にとっては読書というのは純粋な悦びでしかなかった。

何かテーマがあってそれを表現するというよりは、自分の中にある物語的な土壌にどのようにうまく自分を染み込ませていくか。

僕は自分を表現しようと思っていない。自分の考えていること、たとえば自我の在り方みたいなものを表現しようとは思っていなくて、僕の自我がもしあれば、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我がそこに沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。


ストーリーについて


僕の本の主人公はたいていの場合、その人にとって重要な何かを探しています。物語の真の意味は、探そうとするプロセス、つまり探求の運動のうちにあるんです。主人公は、はじめとは別人になっています。重要なのはそのことなんです。

旅行をすることとと、小説を書くことは似通った体験でもあります。たとえどれだけ遠いところに行っても、深い場所に行っても、書き終えたときにはもとの出発点に戻ってこなくてはならない。それが我々の最終的な到達点です。しかし我々が戻ってきた出発点は、我々が出て行ったときの出発点ではない。風景は同じ、人々の顔ぶれも同じ、そこに置かれているものも同じわけです。しかし何かが大きく違ってしまっている。そのことを我々は発見するわけです。

最初にひとつのイメージがあり、僕はそこにあるひとつの断片を別の断片に繋げていきます。それがストーリーラインです。それから僕はそのストーリーラインを読者に向かってうまく呑み込ませる。簡易な言葉と、良きメタファー、効果的なアレゴリー。それが僕の使っているヴォイスというか、ツールです。


どういうストラクチャーで、誰が出てくる、どういう結論にする、そういうプランはまったくありません。ただその出だしのシーンだけがあって、それだけをもとにして書き始める。短編小説って、もっと幾つかのヒントがないと書けないんです。しかし長編の場合、キーポイントがあったらむしろ縮こまって書けなくなっちゃう。もっと自由でありたい。

最初のチャプターを書き終えて、次のチャプターに取りかかるときに、さあ次はどこへ行こうかと、その時点で考える。それはまったく違う場所で、違う人によって行われていることでなくてはならない。

世界中のすべての神話がそういう構造になっていますよね。主人公が試練を進んで引き受けるとき、その主人公を助けるものが必ずどこかから出てきます。でも、そういう援助の役割を引き受けるのは、アウトサイダーじゃなくちゃいけないんです。社会の本流からは受け入れられないものでなくてはいけない。

ひとつひとつの局面において彼女がどのような反応をし、どのような行動をとるかということがつかめてさえいれば、小説的にはそれでいいわけです。小説における人物というのは、あるいは現実世界においてもそうなのかもしれないけれど、そういうところで成り立っているわけです。

小説の登場人物たちは決まって彼らの抱える問題を乗り越える方法を見つける。ただ底に至るまでには、苦しんだり、暗闇や、悪や、奇妙なことにも、暴力を含むような出来事にも、立ち向かわなければならない。僕の物語はだいたいこの考えでまとめられるでしょう。


共感について

小説というのは一種の共感装置だから、ようするに共感を呼べばいい。

時代は変わっても、人間が本当に深いところで悩んだり迷ったりする部分は変わらないんです。

本当に暗いところ、本当に自分の悪の部分まで行かないと、そういう共感は生まれないと僕は思うんです。もし暗闇の中に入れたとしても、いい加減なところで、少し行ったところで適当に切り上げて帰ってきたとしたら、なかなか人は共感してくれない。

書くことによって、多数の地層からなる地面を掘り下げているんです。この深みに達することができれば、みんなとの共通の基層に触れ、読者と交流することができる。つながりが生まれるんです。

視点について

僕の書くほとんどの小説は一人称で書かれています。主人公の主要な役目は、彼のまわりで起こっていることを観察することです。彼は彼が見なくてはならないものを、あるいは見るように求められているものを、リアルタイムで目にします。彼は中立的な立場にいます。その中立性を保持するためには、彼は肉親から離れていなくてはなりません。縦型の家族組織から独立した場所にいなくてはならないのです。僕は自分の小説の主人公を独立した、混じりけなく個人的な人間として描きたかったのです。彼は親密でパーソナルな絆よりは、むしろ自由と孤独を選んだ人間なのです。

三人称で押し切っていくと、なんかいかにも作家みたいというか、神様が上から見て、こいつがこっち行って、あいつはそっちに行かせてというふうに、作中人物たちの行動を動かしていくって、上からの目線という感じがすごくした。一人称だと自分目線で動けるから、わりと地面に近い感覚でいられる。だから僕はデビューの時からずっと一人称で書いていた。自分の視点をちょっと変えるだけで、物語のパースペクティブ(視点、物事の見方)も次々に移していける。

映画監督がカメラを移動するように、主人公がこちらを向いたらこういうパースペクティブ、そちらを向いたらそういうパースペクティブと思うように移動できたし、そういう手法は僕の書く物語に合っていたと思うんだけど、だんだんそれだけでは足りないんじゃないか、という気持ちが生まれてきた。

登場人物にずっと名前を付けなかったこととも同じ話だと思う。というのも、登場人物に名前を付けないと、単純に、たとえば三人の会話って書けないわけですよ。一人称で登場人物に名前がないと、主人公と相手という二人の会話まではできても、三人寄ると会話ができなくなっちゃう。それは明らかに小説の限界になりかねないわけで、そのへんからやはり名前を付けなくちゃなと考え始めた。


小説と音楽とのつながり

良い音楽を演奏するのと同じように、小説を書けばそれでいいんじゃないかと。良き音楽が必要とするのは、良きリズムと、良きハーモニーと、良きメロディー・ラインです。文章だって同じことです。そこになくてはならないのは、リズムとハーモニーとメロディーだ。僕の文章にもし優れた点があるとすれば、それはリズムの良さと、ユーモアの感覚じゃないかな。たとえば僕はエルヴィン・ジョーンズのドラミングが好きです。シンバルがアンカーの役目を果たしています。とても安定していて、とてもソリッドです。そしてそのあいだ両腕はクレイジーに動き回っている。ワイルドなことをやりまくっている。それでもシンバルはしっかりとひとつの場所に留まっています。僕がやりたいのは、言うなればそういうことです。


たくさんのことを音楽から学んだし、その体験は小説を書く上でとても役に立っていると思います。その方法論を小説の中にそのまま持ち込んでいる、ということもできるかもしれない。たとえば・・・リズムの重要性、インプロヴィゼーションの楽しさ、聴衆とのあいだに共振性を確立することの大切さ。これはメタファーではありません。僕にとって、文章を書くことと、音楽を演奏することはそのまま空中で、文字通り直結していることなのです。


短編小説について

集中して短編小説を書こうとする場合、書く前にポイントを二十くらいつくって用意しておきます。何でもいいんです。なるべく意味のないことがいい。たとえば、「サルと将棋を指す」とか「靴が脱げて地下鉄に乗り遅れる」とか「五時のあとに三時が来る」とか。そうやって脈絡なく頭に思い浮かんだことを書き留めておくんです。リストにしておく。それで短編を五本書くとしたら、そこにある二十の項目の中から三つを取り出し、それを組み合わせて一つの話をつくります。そうすると五本分で十五項目を使うわけですよね。そして残った五つは、使わなかったものとして捨てる。いつも多かれ少なかれそういうやり方で短編を書きます。

そういう二十のポイントが必然的なものとして水面に浮かび上がってくるのは、やはり四年のあいだ短編小説を書いていないからですよね。タメがあるから、そういうのが自発的に出てくるんです。ある程度の時間、無意識の中に自分をとっぷりと沈めておかないと、僕のシステムはうまく機能しない。正しい時期が来ていないのに、意識の明かりの中に持ちだしちゃうと、持ち出されたものはすぐに枯れてしまうんです。モヤシと同じように、床下で養分をじゅうぶん与えて成長させて、正しい時期が来たときに蓋を開けなくてはならない。だから、いつ時期が来るかを見定めるのが重要です。タイミングを見る才覚というか、スキルというか。タイミングがほとんどすべてです。


短編小説の師をあげるとするならば、それはフィッツジェラルド、カポーティ、カーヴァーの三人である。

カポーティから学んだのは、短編小説においては文章というものが「妖しくなくてはならない」ということです。ちょっと下品な言葉で言えば読者を「こます」文章でなくてはならないということですね。頭で考えたような文章では読者はこませない。身体の奥の方からじわっと出てくる何かがないとだめだということです。フェロモンが適当に出てないと、短編小説の世界にはなかなか人をひきずりこめない。短編って一発勝負だから、その世界にすっと人を引きずり込めなかったら、どうしようもないです。

フィッツジェラルドから学んだことは、フェロモンは出ていなくてはならないんだけど、それが下品なかたちであってはならないということです。「とにかくフェロモンが出てりゃいいんだろう」みたいなことになってはいけない。そこには優しさと哀しみのようなものがなくてはならないし、書き手の視線は基本的にできるだけ遠くを見ていなければならないということです。短編小説というと「細部、細部」みたいなことになりがちだけど、フィッツジェラルドの優れた短編を読み終えて目を上げると、遠くの風景がふっと前に浮かび上がってくるんです。そういう小説の志が感じられる作品は、読んだ人の心に長く残ります。

カーヴァーから僕が強く感じたのは、「偉そうじゃない」こと。立派なこと、偉そうなことを書かなくても、書くべきことをきちんと書いていれば、それで立派な小説になるんだということ。

短編小説というのは「うまくて当たり前」の世界です。その上で何を提供できるか、ということが主題になります。他の人には書けない、その人でなくては書けない「実のある何か」がそこにくっきりと浮かび上がってきて、今まで見たことのないような情景がそこに見えて、不思議な声が聞こえて、懐かしい匂いがして、はっとする手触りがあって、そこで初めて「うん、こいつは素晴らしい短編小説だ」ということになります。

うまくなくてはならないけど、その中ではとくべつうまくなくてもいい、というのが優れた短編小説の定義かもしれない。僕の個人的な好みは「ばらけかけているんだけど、あやういところでばらけていなくて、その危うさがなんともいえずいい」という感じの作品です。



読書体験について

僕の教養体験はほとんど十九世紀のヨーロッパ小説なんです。ドストエフスキーから、スタンダールから、バルザックから。ディケンズなんかもそう。

十八歳のころ、僕は十九世紀ヨーロッパの古典を読んでいました。主にトルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、バルザック、フロベール、ディケンズです。そしてハードボイルドとサイエンス・フィクションの世界を発見し、レイモンド・チャンドラー、カート・ヴォネガット、リチャード・ブローティガン、スコット・フィッツジェラルドを発見した。僕の教養の基礎は、古典とポップカルチャーにつながる文学との混淆なんですよね。

僕は大学生のとき、カート・ヴォネガットやリチャード・ブローティガンを読むのが好きだった。彼らはたしかなユーモアのセンスを持っています。そしてそれと同時に何かシリアスなものごとを書こうとしている。僕はそういう本が好きなんです。

ジョン・アーヴィング、レイモンド・カーヴァー、ティム・オブライエン・カーヴァーの短編を読んだときは衝撃だったな。短編の書き方については、カーヴァーから何かを教わりましたね。彼が短編を通して言っていたのは、小説を書くには知的でないといけないけれど、書く素材は知的である必要はないということだと思う。アーヴィングからは長編の書き方について教わるところがありましたね。ああいうパワフルなストーリーテリングの声を。小さな、現実的なことじゃないんです。大きなことです。作者の息づかいとか、パースペクティヴ、知覚とか。翻訳すると、そういうものが感じられるんです。

カーヴァーやオブライエンの場合、時に非理性的になります。僕はどうも、物事がぐちゃぐちゃの方が居心地がいいみたいです。そういう世界の方が好きなんです。

カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」。彼は僕が最も高く評価する同世代の作家の一人です。上手なだけではなく魂がこもっている。新作が出たらすぐに買いに行って読みます。

僕にとっての総合小説というのは、たとえば、ティム・オブライエンの「ニュークリア・エイジ」がそういうものですね。あの小説のばらけ方と、ばたけることによって出てくる広がり。それからテーマがやたらと大きいこと。総合小説っていうのは、細部の出来よりは、全体のモーメントがものを言います。とにかくテーマがでかくないと面白くないですよね。

音楽について

もっとも頻繁にターンテーブルに載せるミュージシャンは誰かと尋ねられれば、それはマイルズ・デイヴィスになると思います。五十年代から六十年代のマイルズのレコードですね。

「ペット・サウンズ」とか「スマイル」は年に一回ぐらいは聴き返さなくてはいられない。どうしてそんなに何度も聴き返したくなるかというと、僕は思うんだけど、ブライアン・ウィルソンの音楽の中には、空白と謎がなおも潜んでいるからです。そしてその空白と謎は、ブライアン自身の中に潜んでいる空白と謎に、有機的に呼応しているからなんです。それが僕の言う「物語性」です。