アウトラインから書く小説再入門


プレミス

プレミス(Premis)とは「プロットとテーマを伝える一つの文」のこと。
プレミスはいわば「小さなアウトライン」。
人物舞台設定メインの葛藤を一つの文で表そう。
人物や舞台設定、テーマ、プロットはみな、プレミスから派生する。

ほとんどのプレミスは「もし〜したら?」という疑問で始まる。
「もし〜したら?」という問いには創作を生むパワーがある。

例えば・・・
「もし私たちの夢が実際に起きていることだったとしたら?」

プレミスに叩き上げると・・・
「反骨のジャーナリスト、クリス・レッドストンは夢で見ていることが現実に起きていると気づき、世界の崩壊を防ぐために戦わねばならなくなる」

すると、疑問が思い浮かぶ。
- どんな夢なのか?
- なぜクリスだけが気づくのか?
- なぜ破滅のときが迫っているのか?

▼プレミスを強固にする質問

  • プロット上の大きな出来事を4つか5つ挙げるとしたら何?
  • それぞれの出来事に最低2点、ひねりを加えたら?
  • ひねりを加えたバージョンは登場人物を何かに駆り立てるか?
  • ひねりを加えたバージョンには、どんな舞台設定の追加が必要か?
  • どの登場人物が主人公になりそうか?
  • インサイティング・イベントに最も影響を受ける人物は誰か?
  • その人物は人生において最低2つの大問題、あるいは不安を抱えているか?
  • それらの問題のうち、最も強い葛藤を生むのはどれか?
  • その問題は他の人物たちにどんな影響を及ぼすか?

ゼネラル・スケッチ

ゼネラル・スケッチ(全体の下書き)では、これまでに出たアイデアを書き出してプロットの空白を見つける。アウトラインの大枠作り。

突拍子もない考えも含めて、思いつきを全部書き出す。ストーリーについて考えたことを並べ、眺めながら、まだ決まっていない部分に印を付ける。同時に多くの「もしも」や「なぜ」を考える。

今、思い浮かぶシーンを挙げてみる。主な出来事を箇条書きににてみる。決まっていない部分をどうするかは後回し。ひたすら空想する。書けたものを時間を置いて見直し、漠然としている部分にチェックを入れる。疑問を掘り下げると、また新たな疑問が生まれる。

意識を開放する。脇道に逸れたり、細い隙間や隅っこまで探しまわるように夢想する。探検ヘルメットを被り、サファリに出かけるように。ひらめいてはっとするとき、胸が詰まる感じが本当にしたら、そのアイデアは使えるかもしれない。ストーリーや人物を考えているときに、胸が引き裂かれそうに感じたり、喜びで胸がいっぱいになったりするときは、読者にも似た体験をしてもらえる可能性が高い。

アウトラインが形になり始めたら「動機、欲望、ゴール、葛藤、テーマ」を意識する。ときどき一歩引いた目線で評価し、早いうちにすべての要素が揃っているかを確認する。


▼動機、欲望、ゴール
読者は登場人物の行動を見て、人物像を理解しようとする。それよりも人物が「したいこと」に興味を引かれる。善意や悪意をストレートに行動に移せないときがあるが、こうしたいなぁという気持ちは、その人にとっての真実。人物の人となりは行動に表れる。だがそれ以上に、行動の意図(動機)に表れる。登場人物について、したい行動と動機のリストを作ろう。

率直な人物を描くには、動機と行動を一致させる。
複雑な内面を持つ人物を描くには、動機と行動の不一致を垣間見せる。

フィクションの中核にあるのは主人公の欲望。主人公に強烈に何かを求めさせなければならない。欲望がエネルギーを生み、主人公は様々な障害を乗り越える。人物が何かを求めて何かにぶつからない限り葛藤は起きない。

欲望の対象は、物、人、心の状態、勝利、脱出、場所など。人物のゴールはプレミスによってまちまちだが、燃えるような消し難い欲望が必要。


▼葛藤
葛藤や対立はどのように作るのか。人物の動機、欲望、ゴールを設定し、人物とゴールの間に障害物を置くだけ。小説に力を与えるのは葛藤であり、葛藤に力を与えるのは人物のフラストレーションだ。主人公が勝利や幸福に王手をかけたときに、近道を与えずに遠回りさせる。

どんなストーリーも人間関係が中心だから、人物どうしを衝突させれば面白い葛藤が作れる。主人公が主に衝突するのはメインの敵対者。そのほかの脇役にも小さな衝突をさせる。

予想外の状況を与えてもいいだろう。予想外の状況や、価値観が合わない人との関係などに人物を引き込むことができるだろう。例えば、内気な主人公が人前で演説をすることになったらどうなるか? プレッシャーに負けるか、立ち上がるか。

対外的な葛藤や対立と同様に、心のなかの葛藤も大切。人物の内面と外面の両方を描けたら、深く豊かな人物表現ができる。障害に対する身体的・物理的な反応と、出来事に対する心理的・感情的な反応の両方を描こう。

強弱のバランスが大切。ずっと緊張させ続けるのではなく、たまには休ませて次の策を練る時間を与えよう。


▼テーマ
私たちは問題を投げかける刺激的な小説が好き。娯楽のために読みながら、学び、成長し、視野を広げたいと望んでいる。そんな望みを満たせるのは、真実を深く追求した作品だけ。そんな作品を描くには、作者自身が心から情熱を傾ける信念や真実を吐露しなくてはいけない。創作における最強の武器は、世界をあまねく見渡す独自の視点だ。

物語にメッセージを込めることは、作者の信条や持論を直接書くことではない。作者が強く信じるテーマでもがく人物を多面的に描くこと。そして、読者が厳しい問いを自分に投げかけたくなるようなプロットを作ることだ。小説家の仕事は答えを提示することではなく、疑問を投げかけることだ。

人物の行動やリアクションから自然にテーマが浮き上がる。テーマを強く打ち出すには、人物を強く前進させること。インサイティング・イベントからクライマックスにかけての人物の変化が、作品のテーマと結びつく。ただし、変化は人物の内面から発生させること。
  • 主人公の心の葛藤は?
  • ストーリー上の出来事で、主人公のどんな考え方が変化する?
  • 主人公の考え方は、どのように、なぜ変わる?

キャラクター・スケッチ

▼背景(バックストーリー)
太陽の光に輝く氷山はほんの一角で、それを支えるのは水面下にある8分の7。この隠れた部分がバックストーリーだ。本編の裏にあるストーリー。本編が始まる前の物語であり、人物の決断や行動を生み出す源なので、物語の進行や整合性づくりに欠かせない。目的は本編の方向をつかむため。バックストーリーを見れば、その人物の動機が分かる。

バックストーリーはどこから考え始めるか? 本編が動き出すところ、インサイティング・イベントを起点に考える。インサイティング・イベントでは、人物を取り巻く世界が後戻りをできないほど変わる。ドミノで言うなら最初のピースを倒す瞬間に当たる。人物の過去を作るとき、この鍵の部分から逆算していくと良いアイデアが浮かぶ。

  • インサイティング・イベントに遭遇する原因になった過去の出来事は?
  • インサイティング・イベントに人物がそんなに反応するのは、過去に何があったからなのか?
まずは大まかな背景を考える。それを起点に人物の動機と経歴を考える。
大枠が書けたら、出生地と生年月日を決め、その人物が影響を受けた人たちとの関係を考える。両親は誰で、どんなバックストーリーを持っているか? 主人公が子供時代に受けた影響に絞って考える。主人公と兄弟姉妹、そのほかの主要人物との関係も探る。人物の動機の真相が垣間見えそうな情報に注目する。

本当に探すべきものは、人物の人生を左右する忘れられない出来事。ひとつバックストーリーを考えるたびに、必ずひとつ、人物への見方を変える宝のようなものを見つける。深い洞察から得た情報は強い土台を作る。そのかけらがちらりと本編に見えれば、ストーリーが一層輝く。

バックストーリーは適度に。軽く流さず、負荷をかけ過ぎずという按配が大事。バックストーリーが関与する時間・場所と、そうでないものがある。丁寧に作った背景を読者に披露したい気持ちは山々だが、冷静に。読者が知りたいのは、次に何が起きるかだ。バックストーリーは第1章の直前の基本的な出来事を知らせるためだけに存在する。だらだら描くと読者の気を逸らしてしまう。水面下にある氷山の存在はちらりと知らせるだけにして、物語を前進させよう。


▼インサイティング・イベントとは
「この先、主人公はこれまでと同じように歩き続けられるか?
 もし答えがイエスなら、まだ最初の戸口まで来ていない証拠だ」

インサイティング・イベントが起こるのは、冒頭から4分の1ほど進んだあたりが目安。それまでに人物紹介や問題点、舞台設定をしっかりしておくと、読者はインサイティング・イベントで人物に共感し、ことの重大さを理解してくれる。それぞれが人生を歩み、それぞれの道がインサイティング・イベントで交差する。


▼人物インタビュー
人間関係や価値観、秘密について質問しながら考える。時間がかかるので、主観をとる人物と敵対者などの主要人物のみで十分。

人物の性格を9つのタイプで診断する「エニアグラム」は人物の長所と短所のバランスの確認に使える。


舞台設定

「環境を通して人となりを描く」
周りの風景、我が家、わが町に対する反応を描けば、その人物の姿が分かる。その場所が嫌いか? もし嫌いなら、なぜそこに住み続けているのか? そこで育ったのか? もしそうなら、どんな影響を受けたのか? 場所に対するリアクションで舞台設定を伝えながら、人物のことも明らかにできる。

舞台設定で、読者に感じてもらいたいムードを伝えることもできる。

舞台設定は、プロットを効果的に展開できるように意図的に選ぶ。面白い舞台設定は細部まで想像して活用し、読者の興味を引きつける。たくさんの場所を浅く描くより、魅力的な舞台を一つに絞る方が読み応えがある。メインの舞台以外の場所はできるだけ統合する。舞台の数を減らせば、伏線を張るチャンスが増える。

「ファンタジー世界構築クエスチョン」(パトリシア・C・リーデ)


  • 風景は?
  • この世界で社会はどうなっている?
  • テクノロジーはどのくらい発達している?
  • この世界の自然の法則は?
  • この世界にはどんな人々がいる?
  • この世界の歴史は?


詳細アウトライン

詳細アウトラインでプロット作りが本格的に始動する。できるだけ詳しく、ストーリーの洋書を並べていく。ポイントは後でアイデアが追加できる余地を残しつつ、各シーン内の大きな出来事をしっかりと立てること。基本的にセリフや地の文、心の声は書かない。シーンに番号を付ける。

「自分が一番読みたいと思うストーリーを想像してごらん。それを書けばいい」
自分にとって完璧な小説とは? 自分が好きな小説や映画の、どんな部分に心を引かれるのか。

▼誰の主観で書くのか?
主観(Point of View)は物語の決め手。どのシーンを書き、どのシーンを描かないかを左右する。誰の主観を選ぶかで、閉じる扉、開く扉が分かれる。

主観をとる人物の数を適切に。主観は少数に絞るほど効果的。主観を分散させればより多くのディテールが描けるが、メインの主観の力を弱めかねない。主観をとる人物は心情が表現されやすい。感情的に激しく反応しそうな人物の主観にとるとどうなるか? 複数の主観を使うと、読者は複数の人物の視点からものごとを見ることができる。主観をとる人物を増やすほど、読者の関心や愛着が分散する。いろいろな人物の主観をとると、ストーリーは寸断されて焦点がぼやけてしまう。

▼欠かせない3つの要素
人間関係・アクション・ユーモア。3つの要素の配分は作品によって異なるが、好きなどの小説もどれかが突出しているはずだ。

ユーモア。ユーモアは読者を楽しませ、登場人物に愛着を感じさせる。シリアスな場面の息抜きになり、暗くなり過ぎないようにバランスを保つ。「悲劇の極みの中でも、笑いを誘うものは常にある」

アクション。名作には必ず葛藤や対立が描かれている。葛藤や対立を描くにはアクションが必要。

人間関係。ストーリーとは人間の体験を表すもの。そして、その体験の根本にあるのが人間同士のやりとりなら、小説の核心は人間関係にあるはずだ。恋愛関係や家族関係、友人関係など。あらゆるストーリーの根底には、人間関係、あるいは人間関係の薄さへの嘆きがある。異なる人間関係を対比しながら心のつながりと断絶を描き、悲しみも勝利の喜びも際だたせる。

▼ドミノ式展開
ストーリーのシーンはドミノのピース。読者に読み進んでもらうには、一つのシーンが次のシーンに直接、影響を与えなくてはいけない。次のシーンに影響しないなら、削ってもプロットが成立するなら、そのシーンを削るか書き直そう。プロットの空白が見つかったら、順序をさかのぼって考える。


清書版アウトライン

「詳細アウトライン」は執筆時に読み返すのが大変なので、重要事項をさっと参照できるように新たに作るものが「清書版アウトライン」。詳細アウトラインは紙にペンで、清書版アウトラインはパソコンに入力しています。

使えない部分は削除し、使う部分は磨く。削除できるシーンや一つにまとめられるシーンはないか。作りやパワーが弱いシーンに目星を付ける。人物や舞台設定も同様に。スリム化を意識する一方で、ストーリーが求める語り方を大切にすることも忘れずに。

▼章の区切りを考える
シーンをどこで区切るかは重要な課題。読者に強い好奇心を抱かせる終わり方が必要。どんな章やシーンにも葛藤や緊張を加え、「次はどうなるの?」と思わせるにはどうしたらよいのか? ポイントは読者に疑問を抱かせること。

  • 対立の予感を匂わせる
  • 明かされない秘密
  • 大きな決断や誓い
  • ショッキングな出来事の知らせ
  • 感情の高まり
  • ストーリーを逆転させる事実の発覚
  • 新しいひらめき
  • 答えが示されない問い
  • 謎めいたセリフ
  • 何かの前兆を予感させるメタファー
  • ターニングポイント


ストラクチャーから書く小説再入門

掴み(フック)

掴み(フック)の形は様々だが、根底にあるのは「疑問」。読者が「知りたい」と思えば、掴みは成功。

▼掴みの要素
1. 疑問を感じさせる
2. 人物を登場させる
3. 舞台設定を伝える
4. 何かを明確に言い切る
5. 作品のトーンを感じさせる

読者の興味は人物にある。それも、目の前の出来事に反応している人物が良い。
考えるべき要素は3つ。登場人物とアクション、舞台設定。
「第二次世界大戦が始まった」ではなく「ヒトラー。侵攻。ポーランド」。

▼登場人物
読者がなぜ読み続けるかというと、人物のことが知りたいから。

▼アクション
幕が開くと同時に、人物は懸命に何かをしているべき。その人ならではの姿を描く。後にはっきりと想起でき、なおかつ人柄を表すアクションを。

どんなシチュエーションでも人物を動かす。その行動が次の展開を引き起こし、ドミノ式に連鎖していく。

▼舞台設定

-
次々と連鎖反応が起き始めるタイミングはどこ?そのシーンこそオープニングにぴったり。前置きは削除する。ストーリーは成立してる?人物紹介と性格描写はある?核心にズバリと切り込むエキサイティングなオープニングになった?

物語全体を通して答えを求めていく問いを「Dramatic Question」と呼びます。

▼最初の章の要素
- 強烈な「掴み(フック)」を仕掛ける
- 登場人物に読者が関心を持つ理由を与える
- 作品全体のトーンを打ち出す
- 舞台設定、葛藤、テーマを打ち出す

第1幕

本の最初の25%で人物や舞台設定、危機を紹介する。ストーリーに出てくるものは全て登場させる。第1幕で読者に見せたものだけで、残りが展開できるようにする。

読者に人物を知ってもらうこと。彼らは誰? 性格は? ものの考え方や価値観は? 人物の人柄は場面で表す。まず読者に人物を知ってもらってから、プロットを発展させる。

人物紹介と共に、舞台設定と「危機に晒されている大切なもの」を伝える。

▼登場人物
作家は役者でもある。人物の視点で書くときは、その人になりきらなくてはいけない。その人物を愛せなければ、理解もできない。心を深く探って、行動の理由を考える。

▼危機
人物の登場と同時に、その人物の大切なものも紹介する。その人物が必死で守りたいもの。後に大切なものを巡って戦うことになるので、大切なものを脅かす存在も紹介する。つまり、「敵」も第1幕で紹介する。あるいは、少なくとも存在を匂わせておく。

「危機に晒されている大切なもの」を伝えるだけでなく、描写を膨らませる。言葉で表現したり、アクションの描写で表現したり。平穏な日常生活の描写に「失いたくない大切なもの」を織り交ぜる。

家族や仕事、名誉などに対する人物の思い入れを描写すればするほど、後でテンションを高めることができる。「思い入れ」が描写できるのは第1幕だけ。

▼舞台設定
物語が展開する時間や場所を知ってもらう。設定次第で物語に統一感と深みが増す。
作品の輪郭を示し、プロットの枠になる。

プロットが要求する時間と場所を考える。次に、できるだけ読者に違和感を与えない範囲で、読みごたえのある設定にできないかを考える。場所の数を絞れば、書き手も読者も負担が軽くなり、内容を深めることに集中できる。

できるだけ早く主人公の身近な環境を描く。台所や寝室、オフィスなどの風景から、人物の内面が見えてくる。人物の登場に合わせて周囲の様子を簡潔に描き、重要なディテールを後から少しずつ紹介する。その人物は几帳面か、だらしがないか。裕福か貧乏か。興味の対象や趣味を何かのアイテムで表現できないか。生い立ちや将来の夢を想像させるような物が出せないか。

五感すべてに訴える描写を心がける。

どんな設定でも、読者にとって目新しい場所だと思って描く。想像できる範囲は読者によって異なる。

プロットポイント

その後の流れを激変させる転機に当たるシーンを「プロットポイント」と呼ぶ。大きな出来事や事件が起きて、物語の流れが変わるところ。騒動を巻き起こし、新たな対立を引き起こし、登場人物を動かすのが転機であり、プロットポイント。

25%地点のプロットポイントが他と大きく違うのは、その時から状況が一変すること。この先、人物は後戻りができません。状況説明が終わると、人物は行動に駆り立てられる。

プロットポイントで主人公に大きな刺激が与えられると、主人公は強く反応する。ここで第1幕が終わり、主人公の反応を皮切りに第2幕が始まる。プロットポイントは第1幕の山場。

第2幕(前半)

プロットポイント1(PP1)で大きな転機に遭遇した人物たちは、強く反応する。その反応が次の反応を引き起こし、第2幕前半が進んでいく。PP1で人物はガツンと打たれる。平穏な日々はもうおしまい。ガツンと打たれて、何かせざるを得なくなる。小説の中で最初の大きな転機を見てみると、その後の展開は「人物たちがどう反応するか」が鍵になっていく。

主人公はミッドポイントに至るまで、次々と反応を続ける。自ら行動を起こすこともあるが、あくまでも転機に対する反応としての行動だ。「この先どうなるのだろうか」と考えながら、体勢を立て直そうとする状態。

PP1での転機は状況を一変させる。もはや人物は後戻りできず、リアクションに迫られる。人物のリアクションに対して敵対者も反応を返し、それを受け入れてまた人物も反応する。

▼ミッドポイント
第2幕のど真ん中で、すごいことを起こそう。無限に続く砂漠のような中盤を書き始め、真ん中まで到着したら大転換。ストーリーを「吊るす」ための中心点こそ、第2の大きなプロットポイント「ミッドポイント」。第2幕の分け目になる。

ミッドポイントの役割は、中盤をぐっと引き締めること。それまで描いてきた人物のリアクションを締めくくり、人物の行動をスタートさせて第3幕に導く。2度めの大転機。ストーリーの流れが変わり、人物の反応もストーリーを変えていく。しかし、もう人物は受け身ではない。自らの意志で行動し、敵対勢力に対抗します。

ドミノ倒しに例えると、ミッドポイントは曲がり角。第2幕の前半のリアクションの連鎖がくるっと向きを変える、大きな局面。論理的な流に沿いつつ、全く新しい方向へ物語を展開しなければいけない。ミッドポイントで、人物は状況に反応するだけの状態から脱却する。精神的にも肉体的にも、サバイバルするために守りから攻めに転じることが必要。

第2幕(後半)

ミッドポイントを過ぎたら物語はヒートアップする。主人公は積極的に行動し始め、プロットの運びは活発になる。この裏にあるのは主人公が得た「気づき」であることが多いだろう。その気づきが何なのか、まだ主人公は言葉で表せないかもしれない。また、内面の弱さや欠点、問題も残っているだろう。しかし、「これではいけない、何かせねば」と思い始める。ミッドポイントの転機以降、徐々に生まれ変わろうとする。主人公は苦しい状況でも前向きに行動する。

第2幕前半の主人公は、身に振りかかる出来事に反応するばかりだったかもしれません。ミッドポイント以降の第2幕後半では、人物に内面の強さが生まれる。自力で運命を切り開くのは困難でも、その困難に対して何かしようと試みる。人物が成長しようとすることで物語が動く。人物に厳しい現実をぶつけ、苦しい思いを経て立ち上がる姿を描く。

この部分を使って主人公を鍛え抜き、終盤のクライマックスへと運んでいく。失敗から学び、また問題に直面させ、敵(主人公自身が内面に抱える敵も含む)に立ち向かう準備をさせる。内面も含めて、主人公が最大の危機に直面するのは第3幕。第2幕の後半は準備期間と捉えて、後に人物が直視しなければいけない欠点を伏線として描く。

第3幕

第3幕も劇的な事件で始まる。前との違いは、決してパワーダウンさせないこと。人物も、そして読者も一緒に、激しい流に突入する。全ての糸が絡み合い、結びへと向かう。第3幕は本の最後の4分の1にあたる。全体の75%地点かそれより少し前から始まり、終わりまで続く。

第3幕の課題は山ほどある。全ての登場人物(重要な物も含む)を集結させること。サブプロットに落ちをつけること。伏線の展開を明かすこと。主人公と敵対者の両方に、最終計画を実行させること。主人公に内面の弱さを直視させ、最終バトルで成長、変化を遂げさせること。

▼プロットポイント2(PP2)
第3幕も、大きな変化を促すプロットポイントで始まる。主人公をさらに強く前進させ、クライマックスへと向かわせます。以降のドミノは直線コース。まっしぐらに主人公と敵対者の衝突へと進む。PP2で人物はどん底に落ちる。望みが叶う一歩寸前でだめになり、これまで以上に落ち込む。そこから再び戦う力を呼び起こし、クライマックスへ。人物はPP2で燃え尽きて灰になった状態から、再起しなければいけない。

第3幕では自分の弱さや過去の過ちを直視せざるを得なくなります。この先の勝負に勝つには、真実を認めて打ちのめされ、這い上がって新たな知恵や力を得なくてはいけない。

ストーリーで大切なのは人物の変化だ。書き手の仕事は人物に変化をもたらす旅をさせること。多くの場合、それは成長の旅だろう。序盤にゴールに手が届かなかったのは、本人に何らかの思い込みがあったからではないだろうか。その思い込みや価値観を塗り替えるために、物語で旅をさせるのだ。ただの旅行ではない。その人物が新しい自分になるために、必ず通らなくてはならない局面に連れて行くのだ。

生か死かの究極の選択が必要。努力の甲斐なく、愛も希望も壊れていく。なぜなら、まだ人物が心に蓋をしているから。恐れや疑念など、これまで見ないようにしてきたものがあっただろう。最終決戦でそれを乗り越えなければ、未来には進めない。

▼クライマックス
完璧なエンディングには、必然性と意外性の両方が必要。理屈抜きで納得できて、予想外。必然かつ意外なエンディングを書くには、「伏線」と「複雑化」の二つが必要。つまり、パズルのピースをあらかじめ見せておくことと、多くのピースを見せて複雑に見せかけること。小説の終盤は、パズルで言うなら全体の絵がほぼ見えている状態。残り、あと10個ほどをはめ込んだら完成といったところにいる。

ほぼ全ての物語にあるのは主人公の「気づき」。クライマックス近くで何かを悟る。そして、それまでの考え方を捨て去り、敵にぶつかっていく。自分の心の葛藤にも、敵との対立にも、ここで決着をつけようとする。クライマックスの終わりに来る「クライマックスの瞬間」は、ラストから2番めのシーン。それが終わったら、あとはラストシーンのみ。語るべきことはクライマックスで出し尽くす。ラストシーンは情緒的な余韻を見せるだけの存在です。

解決

解決は、クライマックス直後から最後までの部分。勝負が付けば物語は終わるが、そこで小説もぷつんと終わってしまうと、読者は物足りなさを感じる。クライマックスでは感情が激しく刺激されるので、ほっとできるくだりが必要。人物が変化を遂げた後の姿を、少しだけ描く。

解決はできるだけ短いほうが良い

音楽と同じように、盛り上がった後は徐々に落ち着かせてエンディングに持っていく。読者が物語を堪能した後、ほっとしてゆっくり現実に戻れると良い。

まだ物語が終わっていない雰囲気も出す。読者が本を閉じた後も、生き残った主要人物たちの人生は続く。



冥王星



米国航宇宙局(NASA)の無人探査機「ニューホライズンズ」が、日本時間の7月14日午後8時49分、9年半の長旅を経て、冥王星に最接近し通過した。接近距離は1万2500キロ。取得データはこれから約16カ月かけて地球へ送られる。探査機は最接近前後の9日間で380種類以上の観測をしており、来秋にかけて結果を送ってくる。
ニューホライズンズの観測データの受信には16か月かかる見通しで、その分析と研究には何年も要する。また、ニューホライズンズの探査目標は冥王星や衛星カロンだけではない。太陽系形成のなぞを紐解く数千個もの天体が存在するカイパーベルトの中を飛行して、今後も探査を続行する。
公開映像で、星の表面には、おそらくメタン、窒素、一酸化炭素などの霜から成るであろう大きなハート形の模様が目立っている。NASAはこの領域を、冥王星の発見者トンボーにちなんで「トンボー領域」と命名。そこには、氷でできていると思われる富士山クラスの高さの山がいくつも確認できる。そばに凍りついた平原が広がり、亀裂のようなものが走っている様子が見られます。この平原は「スプートニク平原」と呼ばれている。わずかながら窒素を主成分とする大気があることも確認されている。



最接近前の7月13日に地表から約77万kmの距離から撮影された冥王星


星の表面には、おそらくメタン、窒素、一酸化炭素などの霜から成るであろう大きなハート形の模様が目立っている。NASAはこの領域を、冥王星の発見者トンボーにちなんで「トンボー領域」と命名した。

冥王星などでは地質活動が続いている可能性が浮上している。ハート形の地形の一部などに、隕石が衝突してできるクレーターがなく、1億年以内に生まれたとみられる比較的「新しい」地形が見つかったからだ。地質活動は太古に停止したとみられていたが、内部で続いている可能性がある。

フライバイ時に撮影された冥王星(富士山クラスの3500m級の氷山





最接近1時間半前に、冥王星上空約7万7000kmから「ハート模様」の南端付近をとらえたもの。全球の1パーセントにあたる領域で、3500m級の山々が存在している様子がはっきりとわかる。(カラーバーの50マイルは約80km)

これらの山々は水の氷でできているとみられている。どうやら1億年以内に形成されたもののようで、約46億年という太陽系の歴史の中では極めて若いものといえる。冥王星では今でも地質学的な活動が起こっている可能性を示唆する観測結果だ。木星や土星の周りを回る凍った衛星とは異なり、冥王星ははるかに大きな天体との相互作用で熱を生み出すということがないので、山々を作っているのは何か別のプロセスなのだろう。

活動の原動力になっている熱源はわかっていない。探査チームは、天体内部で放射性元素が自然崩壊して出す熱の可能性が高いとみている。

▼3500m級の氷山
→どうやってできたと考えられる?
→水の氷でできている?
→1億年以内にできた?
→今でも地質学的な活動が起こっている可能性がある

→今でも地質学的な活動が起こっている理由として考えられることは?
 - 大きな天体の潮汐力で熱を生み出している?
 - 天体内部で放射性元素が自然崩壊して出す熱の可能性が高い?

冥王星のメタンに関する分光観測データ



左の画像中、破線で囲んだ領域におけるメタンの存在量を示したグラフ。北極領域と赤道領域でメタンの氷の量が大きく異なっている。

冥王星の氷原(クレーターのない氷の平原



冥王星から約7万7000kmの距離から撮影。クレーターのない広大な氷の平原がとらえられた。同地形の年齢は1億歳以下と若く、いまでも地質学的なプロセスが進んでいるのかもしれない

▼クレーターのない氷の平原。地形の年齢は1億歳以下と若い
 →この平原はどうやってできた?
 →今でも地質学的なプロセスが進んでいる可能性がある

氷原は、すっかり冥王星のシンボルとなった「ハート模様」(冥王星発見者クライド・トンボーにちなんで非公式に「トンボー領域」と名付けられている)中、南の領域に位置している。「スプートニク平原」(これも非公式)と名付けられたこの地形がどのようにできたのか、説明は簡単にできるものではなく、最接近前の予想を上回る発見だという。

連続する不規則な形は幅およそ20kmほどで、溝のように見える地形に囲まれ区切られている。溝の一部には暗い物質が存在し、溝に沿って周囲の地形よりも盛り上がった丘のような地形が集まっているところもある。さらに、表面に小さなくぼみができている領域も見られ、氷が昇華した際にできた可能性がある氷原には同じ方向に揃った長さ数kmの暗い筋も見つかっており、氷原に吹く風が作ったものかもしれない

▼溝の一部には暗い物質が
 →これは何?

▼表面に小さな窪み
 →氷が昇華したときにできた可能性がある

▼同じ方向にそろった長さ数kmの暗い筋
 →風が吹いている可能性がある


谷に囲まれた数十キロほどの地形が集まり亀の甲のような模様で分布している。水たまりの泥が乾くときにひびが入るように、表面の物質が固まってできたか、冥王星内部に何らかの熱源があり、氷状の窒素やメタンなどが暖められて、泡が浮かび上がるようにしてできたとみられる表面には、同じ方向に延びる複数の黒っぽい筋も見つかり、風が吹いている可能性があるという。

▼亀の甲のような模様
 - なぜこのような模様ができたのか?
 →冥王星内部に何らかの熱源があり、氷状の窒素やメタンなどが暖められて、
  泡が浮かび上がるようにしてできた可能性がある

トンボー領域の西半分に見られる一酸化炭素の分布


可視光・紫外線撮像装置「Ralph」による観測から、同領域に一酸化炭素の氷の存在が明らかにされた。一酸化炭素の量は中心にいくほど増えているようだ。

▼一酸化炭素の氷が存在する

窒素イオンで占められている太陽風内の空洞、プラズマの尾などを示した図


冥王星周囲太陽風観測装置「SWAP」は最接近から1時間半後に太陽風内の空洞を観測し、冥王星の背後(太陽の反対方向)に10万km前後にわたって長く伸びる、窒素イオンで占められたプラズマの尾を検出した。大気が太陽風によってはぎとられ、宇宙空間へと放出されているのだろう。

今後、紫外線撮像装置「Alice」と電波実験装置「Rex」による大気計測データから、冥王星の大気喪失の割合が解明されるだろう。冥王星の大気と表面の進化の謎が明らかにされたり、太陽風との相互作用の範囲が決定できたりすると期待される。


「ノルゲイ山地」の北西約110kmに見られる山々



探査機「ニューホライズンズ」の望遠撮像装置「LORRI」が7月14日に冥王星上空7万7000kmから撮影したもので、差し渡し約1kmほどのものを見分けられる解像度だ。冥王星の全体像に見られるハート型の「トンボー領域」の南西部(左下付近)がとらえられており、明るい氷原と暗くクレーターの多い大地の境界部にそびえる山々が見える。

すでに公開された画像からは3500m級の氷山が連なる「ノルゲイ山地」が発見されていたが、今回新たに発見された氷山の高さは1000mから1500mほどと低い。

「東側に位置する、若い地形である明るい氷原と、暗くクレーターの多い西側の地形には、明らかな違いがあります。2つの間で複雑な相互作用が起こっているのでしょうが、詳しいことはまだわかりません」(NASAエイムズ研究センター Jeff Mooreさん)。

右側の「スプートニク平原」は形成から1億年以下と地質学的に比較的若いと考えられ、暗い領域はおそらく数十億年前の地形とみられている。Mooreさんはとくに、明るい堆積物のようなものが古いクレーターを満たしているように見える点(たとえば、中央のやや左下に見える明るい円形地形)に注目している


スプートニク平原周辺に見られる地形(窒素の氷河が流れている



ハート模様のトンボー領域内の西(ハートの左半分)に位置するスプートニク平原に見られる様々な地形が詳細にとらえられている。興味深いのは広範囲を覆う窒素の氷河(氷床)の流れた跡だ。地球の氷河と同様に、今も流れているかもしれない

クトゥルフ領域とスプートニク平原周辺に見られる地形



スプートニク平原は窒素だけでなく一酸化炭素やメタンの氷も豊富なようだ。トンボー領域の一番南には古いクレーターの多いクトゥルフ領域があり、暗いこの領域に新しい氷が押し寄せているように見える。中央やや下には氷で埋められたらしいクレーターもある。

冥王星の擬似カラー画像


「LORRI」による高解像度データと「Ralph」によるカラーデータを合成して作成。色を強調した画像からは、表面の様子や組成の違いがわかる。赤道上に最も暗い地形があり、中緯度地方は中間色、北極領域は氷が広がっていて明るく見える。おそらく、季節の移り変わりと共に氷が赤道から極へと運ばれるためだろう。

冥王星の右下に沿うように北東から南西へと伸びる青白っぽい地形には、スプートニク領域から氷が運ばれているのかもしれない。

冥王星のシルエットと大気のリング(大気のもや


冥王星最接近から7時間後に探査機「ニューホライズンズ」は冥王星を振り返り、冥王星の周囲の大気を通り抜けた太陽光が作り出したリングをとらえた。

画像の初期分析から、大気中の高度約80kmと約50kmに2層の「靄(もや)」が存在していることがわかった。靄は、冥王星を赤っぽく見せている炭化水素化合物を作る上で鍵となる要素だという。

▼2層のもや(高度約80kmと約50km)
 →もやはどうやって形成された?


モデル計算からは、太陽の紫外線がメタンを分解すると靄が形成されることが示唆されている。メタンの分解から冥王星の大気中に見つかっているエチレンやアセチレンなどの形成が引き起こされ、大気中でより低温の層へと落ちていくと靄ができるのだ。紫外線はさらに靄を赤茶色のソリンに変化させ、これが冥王星の色として見える

これまでの計算では、冥王星の上空30km以上は温度が高く、靄はできないとされてきた。冥王星で何が起こっているかを理解するには、別の新しい考え方が必要なのだろう。




文体の科学



第1章 文体とは「配置」である

文章(文体・style)は思想を彫らねばなりませぬ。それゆえ名文を書くためには主題に精通せねばなりませぬ。これにじゅうぶんの省察を加え、もって思想の秩序をはっきりと見極め、思想に適当の順序をほどこし、おのおのが一個の観念を表示するところの連鎖を作らねばなりませぬ。
(「ビュフォンの文章講演」)

文章の書き手がある主題について考えたこと(思想)とその配置こそ文体の本質であり、これは他人が盗み取れるものではない。というのも、文体とは人がものを考える際に設ける秩序と運動なのだから。

文章を書く人がどんな言葉を配置するかという点については、おのずとその人の経験と記憶が問題となる。人が文章を書く際に用いることができるのは、基本的に自分の脳裡に収まっている言葉だけである。私たちは文章を書くつど、それまで目にしてきた言葉や耳にしてきた言葉の経験とその記憶を活用して、そこから組み合わせを生み出している。言い方を変えれば、自分の記憶こそが言葉を選び出す際の母体である。

第2章 文体の条件―時間と空間に縛られて


第3章 文体の条件―記憶という内なる限界

そもそも言葉というもの自体が、さまざまな事物や経験を、コンパクトに圧縮保存するための記憶装置のようなものだ。言葉が記憶を圧縮して保存しているようだ。言葉がきっかけとなって、人間の脳裡に収められた記憶が顕在化するといったほうがよい。言葉とは、記憶に蔵された何かを引き出すための鍵のようなものだ。

第4章 対話―反対があるからこそ探求は進む

ガリレオ・ガリレイの「天文対話」。正式な書名はもうちょっと長くて「プトレマイオスとコペルニクスとの二大世界体系についての対話」という。

何かを「知る」とはどういうことか、これが対話の隠れた主題なのだ。

なぜわざわざ対話にするのだろうか。ガリレオは、対話形式を採る利点をこう述べている。

「対話であれば数学上の法則に入念な注意を払わねばならぬということはなく、またときとすると主要な論証に劣らず興味のある脱線の余地も多いからです」

同じことを論文のような独話体で書こうと思ったら、数学的論証を細かいところまできっちり書いてしまわねばならない。この書物で検討したいのはそうしたことではなく、むしろ「天地のいずれが動いているのか」という大問題をどういう理路で考えるかという道筋だ。

対話なら「主要な論証に劣らず興味のある脱線」ができる。そもそも脱線とは何だろうか。一体どういう立場に立つと、ある議論が「脱線」していると感じられたり、そう判断できるのだろうか。それは、進むべき「本線」がすでに決まっている場合だ。

ことにある問題を巡って、決定的な結論が予め分かっていないような場合、つまり、到着点が見えないまま、探りながら進んでいくような場合、そもそもなにが「脱線」でなにが「本線」かということは、事の次第からして決めることはできない。そのような見方ができるとすれば、どこかに到着した後で、辿ってきた足跡を振り返ってみて、「ああ、ここに来たいのなら、もっと近道があったな」と事後的に「本線」と「脱線」を発見することだろう。だが果たして、その「脱線」がなければ、今立っている場所に辿り着いたかどうか、定かではない。

一つの問題を巡って、三人の人物がときに意見を対立させて歩み寄ったり行きつ戻りつしながら、共に試行錯誤してゆくその様こそが、ぜひとも必要だったのである。

対話という形式であれば、私たちの日常的なおしゃべりがそうであるように、話はあちらこちらへ遊んでよい。むしろ、対話の醍醐味は、独話では隠されてしまいがちな右往左往の過程、ああでもないこうでもないという試行錯誤の過程そのものを俎上に載せやすいという点にある。一足飛びに「結論」だけを欲しがるのではなく、どんな検討や試行錯誤を経て、その結論へと至ったのかという道筋を示せるのだ。ガリレオが、対話なら脱線できる余地があると言ったのは、恐らくこうした意味なのだろう。

この対話の場では、参加者相互の間に何が生じているのだろうか。「天文対話」を見る限り、サルヴィアチとシムプリチオは、互いに同じ意見に達して合意したりはしていない。しかし、「天文対話」が素晴らしいのは、むしろ議論が決着しないところにある。容易には分かり合えない者同士が向き合っているからこそ、自分にとっては自明と思えることも、意見の違う相手に向けてきちんと言葉にしたり、対話の過程を通じて、様々な角度から検討が重ねられてゆくのである。

二人の人がいて、互いに考えることが部分的にであれ「一致する」とはどういうことなのだろう。異なる人間は、当然のことながら異なる人生を歩み、異なる来歴を持っている。脳裡にある知識や経験やものの考え方、記憶のあり方は、人それぞれで違っている。そう考えると、むしろ人々が合意できること、理解し合えることのほうが不思議にさえ思えてくる。

自分の言葉がどのように受け止められたかを、直接確認する術はない。他人の頭の中を覗くことはできないし、心中なにが渦巻いているかを知ることはできない。ただ、サグレドやシムプリチオの言葉や表情や身振りといった外面に現れて、こちらにも知覚できるなにかを見聞きして、推し量る他はない。虫の居所や何を信じたいと望んでいるかといったこと、感情や信念が事態をいっそう複雑にする。

他人が何を考えているのかは分からない。というよりも、何がどうなったら他人の考えが分かったことになるのかということさえ、実はよく分からない。

私たちは言葉を使うとき、自分が言わんとすることを、既成品である言葉という鋳型に流し込み、組み合わせて提示しているのである。人の脳裡心中は分からないという大問題については、後で「小説」について考える際に、もう一度真正面から向き合うことになる。

それでも対話を続けているのが面白い。理解より無理解があるからこそ、互いの違いがいっそうはっきりと浮かび上がり、問題点が鋭く顕わになる。意見が一致せず、すれ違い続ける。だからこそ、対話は続く。言葉を尽くすほど、互いに脳裡で考えていることがより多角的に現れてくる。

現在、書物のほとんどは独り言のように書かれている。それを書いたり読んだりするのはどういうことなのか。その独り言を入れて移動できるように形を与える書物とは何なのか。実は、本書全体の底には、このようなぼんやりとした疑問がある。


第10章 小説―意識に映じる森羅万象

その世界に存在しているということは、猫が思い出せる前にどこかで生まれたのであり、最初の記憶がある時点までの間も、なんらかの生活を営んでいたはずである。しかし、記憶を語る以上、思い出せないことは語りようもない。つまり、猫の記憶、しかもそうしようと努めて思い出せる記憶が、この語りの材料のすべてである。猫が経験しても記憶していないこと、記憶には刻まれていても思い出せないことは、語りたくても語れないのである。そうした記憶が蘇るには、きっかけが必要だ。例えば、ある男が紅茶に浸したマドレーヌの風味から、長い長い記憶を想起するように。

主に二つのことに注目した。一つは、書かれていることと書かれていないこと。もう一つは、この場面の時間の流れ。いずれも、小説という種類の文章について考える上で、非常に重要な点である。

書生が猫を見つけて拾い上げるまでのあいだ、一匹と一人、そして両者が存在する場所を構成するあらゆる物事とその変化、時間とともにそこで生じるすべての出来事のうち、カメラで撮影できるものだけが映像に映る。内心のようにカメラで撮影できないものは映らない。仮に、この映像に映る様子が全体だとしたら、先ほどの文章に表されているのは、その一部だ。書かれていることに対して、書かれていないことが膨大にある。

作家は小説を書くにあたって、必ず取捨選択を行っている。ある情景を書くとき、すべてを書き尽くすことはできないとしたら、何を書くのか。どのような言葉で書くのか。言葉をいかに配置するのか。ここにこそあらゆる小説の秘密がある。小説の文には、書き手がどのように世界を見ているか、どんな経験を重ねてきたか、どのような言葉を脳裡に蔵しているか、そういったことが否応なく現れるのである。それがいわば作家の「文体(style)」を形作っている。だから、仮に「同じ」場面を描くとしても、書き手が何に注目して、何を取り、何を捨てるか、それをいかなる言葉で表すか、つまり選択と省略の仕方によって、まるで異なる状況が描き出されることになる。

小説の文章は、複数の視点や時空間が撚り合わされている。そうした複雑な状況が、厳しく取捨選択された言葉で編まれている。

本を手に取り、小説を読み始めると、一本の線状に並んだ言葉に沿って、目と意識が働き、手はその流れを助けるようにページを繰る。小説に没頭すればするほど、最前まで次々と私の注意を奪い去っていったざわめきが背後に退いてゆき、言葉の流れにすっかり心身を委ねることになる。その言葉の綾をたどる読者の心中で、ある出来事が生じ、変化してゆく様が浮かんでは消え、ある気分が催される。小説とはそのような一種の秩序を与える言葉の装置なのだ。その秘密の鍵は、人間の「意識」の中にある。


小説には何がどのように書かれているのか。このことを徹底的に考え抜いた人の一人が、夏目漱石だった。彼がロンドン留学を経て、帝国大学で講じた一連の講義、特に「文学論」として後にまとめられた考察は、今もなおこのことを考える上で非常に重要な考え方を示している。

漱石の狙いは、多様なかたちをとる文学全般を、できる限り普遍的に、根底から捉えてみることだった。それを煎じ詰めたのが、同書の開口一番に説かれる「F + f」という定式であり、「文学論」全体がこのことの意味を説くために書かれている。

【 F + f 】(認識)+(情緒)
F:焦点的印象または観念、認識的要素、知的要素
  感覚、人事、超自然、知識の4種類に分類できる。
  人が何かを思い浮かべること、認識すること。
f:情緒
  喜怒哀楽や恐怖、怒り、同情、恋心など。

「F」と言われているのは、「焦点的印象または観念」を記号で表したもの。恐らく「Focal impression or idea」のこと。また、Fを「認識的要素」や「知的要素」とも呼んでいる。もう少し具体的には、感覚、人事、超自然、知識の四種類に分類している。言ってしまえば、人が何かを思い浮かべること、認識することを指している。他方で「f」とは「情緒」であり、こちらは「feeling」を指すと思われる。喜怒哀楽や恐怖、怒り、同情、恋心などがこれに当たる。漱石は、およそ文学作品は人間が思い浮かべる「認識」と、それに伴う「情緒」という二大要素から構成されているというのだ。

満開の桜を眺めて(知覚)
「実にいいものだ」と感じ入る(情緒)

書生という人間の噂を聞き(知覚・知識)
恐ろしいと感じる(情緒)

こうしたさまざまな「F + f」によって、文学は作られているというのである。


「焦点」とは何か。漱石は、当時の心理学(現在でいう認知科学や神経科学とも重なる)を念頭に置いている。

心理学者ウィリアム・ジェイムズの「意識の流れ(Stream of Consciousness)」という捉え方を踏まえている。ジェイムズは、人間の意識とは絶えず流れてゆく川のようなものだと喩えた。

イギリスの心理学者ロイド・モーガンは、その「意識の流れ」という見方に立って、もう一歩を進めた。つまり、人間の意識をさらに積極的に「波」に喩えて表現した。私たちの意識は、時々刻々絶えず波打って流れている。ある事柄が意識に現れたかと思えば、次第に消えてゆき、また別のものが次第に現れてくる。その波の頂点を、モーガンは「焦点(Focus)」と呼んだ。



私たちは自分の意識の状態ひとつでさえ、まともに記述することはできない。複雑すぎるし、ジェイムズが喩えたように川のごとく絶えず流れており、移ろう。それに対して、言葉というものは、あまりに粗雑すぎるかもしれない。だが、言葉という既成の鋳型を使うことで、私たちは、そうした変化し続ける波の連続から、なんとかその幾ばくかをすくい取り、固定して、他の人に伝えられるのだ。そして、文学作品では、人の意識の波の一部、意識に浮かぶもの、その波の「焦点」を、言葉で縫い取っている。これが漱石の言う「F」である。


文学においては、何を描こうとも、そこには必ず人間の知覚や思考、記憶、情緒が反映されている。作家は、小説を書くにあたって、自らの意識の流れの中から、ある焦点を選び、それを表す言葉を記憶や辞書に探って選び、言葉の配置を選んで文を成し、文の配置を選んで文章を構成する。描かれる事柄は、人間であれ自然であれ人工物であれ無機物であれ、人間の意識に映じたかたちで表現されることになる。そこには当然のことながら、作家が生きる時代における人間理解、心と体の両面に関して諸学術が明らかにし得たことや世界観が反映されている。

人間の意識の性質を踏まえることこそが、文学なるものの本質に迫ることである。漱石はそう考えた。


本を読むときに 何が起きているのか


フィクション

ほとんどの小説家は、登場人物の身体的特徴よりも、その行動について詳細に描く。

人物描写は一種の輪郭作りだ。登場人物の特徴は、その輪郭を言葉で説明したものである。その人物の意味合いをはっきりさせるためだけに必要な特徴だ。

テクストが明らかにしていないものこそが、私たちの想像力を誘発する。私は自問する。作家の描写が省略が多く抑制的であればあるほど、私たちはより詳細に、この上なく鮮明に想像できるのではないだろうか?

登場人物は暗号である。そして物語は省略によってより豊かになる。

究極的には、登場人物が、架空の輪郭づけられた世界に登場するすべての人物や事象に対しての関係性の中で、どのような行動をとるかということが重要なのだ。

私たちは常に、小説の登場人物の像を脳裏に思い返し、再考し、修正して、さかのぼって再確認し、新しい情報を得るたびに更新するのだ。

時間

私にとって最高の本とは、高速で進みながらも、時折、人を停車させて路肩で驚かそうとする、そんな本だ。

ジェイムズ・ジョイスの小説の登場人物であるバック・マリガンは、「ユリシーズ」の冒頭においては、単なる記号にすぎない。しかし、小説の中で彼と他の登場人物との交流を知っていくと、より微妙なニュアンスを帯びてくる。ダブリンの人々とのやりとりから、彼の別の側面が見えてくる。ゆっくりと、バック・マリガンは複雑になっていく。

すべての文学作品の中の登場人物のキャラクターがそうであるように、バックのキャラクターも、行為と行為の相互作用から生まれた、複雑な現象と言える。

ナイフは、切るという行為によってナイフになる。

登場人物はその行為によって理解される。まるで後を追っている人を見るかのように、登場人物を思い描くのだ。群衆の中に飛び出た頭、角を曲がる上半身、見逃してしまいそうな足元・・・。フィクションにおいて、このバラバラな部分を集める行為は、実生活で人と場面を一致させる方法と似ている。

鮮やかさ

イメージの特定性と文脈がはっきりしていればいるほど、より鮮明にイメージは呼び起こされると、ナボコフは主張しているようだ。

描写の「真」の感覚は、その描写の特定性によるものだ。

描写は加法的ではない。しかし、見えているもの(光景)は加法的であり、同時発生的だ。

素描する

私が輪郭を捉えようとする形象の遠近感は、紙の一歩手前に、鉛筆の削ってないほうの端に。つまり、私の内部にあるのです。

私は、想像とは視力のようなものだと思う。つまり、ほとんどの人間が持つ能力である。しかし、もちろん、視覚を持つ者が全員同じ視力で見ているわけではない・・・。

あいまいで不完全な想像を超えられないことが真実ならば、それこそが、文字による物語が愛される究極の理由ではないだろうか。つまり、時に我々は見たくないのだ。

共同創作(Co-Creation)

良い本は、作家が提案したものに書き加えていくように、読者の想像力を誘発する。この共同創作の行為やパーソナライズ(個人化)がないと、読者には次のようなものしか与えられない。

私たちは、本の内容を想像するとき、その本が与えてくれる流動性や気まぐれを望んでいる。見せてもらいたくないものもあるのだ。

読書しながら見るこれらのイメージは、個人的なものである。私たちが見ることのないものが、作家がその本を書くときに描写したものである。つまり、すべての物語は変換されるべく、想像的に解釈されるべく書かれているのだ。その連想的に解釈されたその物語は、私たちのものなのである。

おそらく、役と舞台装置という2つの言葉は、小説を解説するときにも使えるのではないか?

読者は、小説の舞台となっている場所、登場する物や人物が、自分の思い描く場所や物、人物と同一であってほしいと思う。この欲望は矛盾をはらんでいる。この欲望は本人以外立ち入ることができない極私的な領域にアクセスすることへの欲望であり、一種の強欲である。しかしそれは、その光景を共有しているという、孤独に対する防衛策でもある。

読者の想像の領域中での、作家の役割とはなんだろう?

目、視覚、媒体

私たちは想像のメタファーを内側へ向かうものとしてとらえている。外部の光景は、内部の視界を抑制するだけだ。わたしは目隠しをされて歩いていたような気分がします。この本はわたしに眼を与えてくれるように思います。

想像は「内心の眼」のようだと言える。

茫然と、または思いに沈んで
臥しどに身をよこたえるとき
彼等は、孤独のよろこびである
内心の眼にひらめくのだ
(ウィリアム・ワーズワース)

ワーズワースの水仙は、想像したというよりは記憶したものだ。水仙の花、その黄金のグラデーションと、けだるい揺らめきが、最初は詩人に感覚的な情報としてとらえられたのだ。詩人はそれを(おそらく)受け身で受容する。後になって初めて、これらの花が、詩の中に反映されたり能動的な想像の栄養になるのだ。

どこかの時点で、ワーズワースはこの水仙の花を内在化した。しかし記憶の原料は、おそらくは実際の水仙なのだ。

「星屑」のように広がる花の黄色が、私たち自身の「内心の眼」の前で「ひらめく」。


本から何かを想像するとき、私たちはどこにいるのだろう? どこにカメラはあるのだろう?

物語が一人称で語られるなら、そして特に物語が現在形で進むならば、私たち読者は自然と、行動を語り部の「眼を通して」見るようになる。

語りの声が三人称の場合、あるいは、一人称の物語の舞台が過去の場合(まるで友人が物語を思い出しているような)、私たちは自然と行為の「上」もしくは「横」にいる。私たちの有利な観点、例えば、物語の有利な観点は「神の視点」だ。

記憶と幻想(Memory and Fantasy)

想像の材料として、そして想像と混ざりあっているものとしての記憶が、想像であるかのうように感じるのではないか。そして、想像というものが、組み立てられた記憶のようにも感じるのではないかと思うのだ。

記憶は、想像上のものから作られていて、想像上のものは、記憶から作られている。

小説の出来事や付属物を思い描くという行為は、私たちに思いがけず過去を振り返らせる。そして私たちは、夢をたどるように残像の中を探り、ヒントや、失われた経験の断片を探すのだ。

言葉が効果的なのは、その中に何かを含んでいるからではなく、読者の中に蓄積された経験の鍵を開けることができるという潜在的な可能性があるからだ。言葉は意味を「含む」が、もっと重要なのは、言葉が意味の有効性を高めるということである。

私は「川」という言葉を読み、文脈のあるなしにかかわらず、その表面的な言葉の下へ潜り込む。

読者の記憶はすでに川の水で溢れている。作家はその水たまりをちょっとつついてくれればいい。

共感覚(Synesthesia)

読書の際に経験することの多くが、ある感覚が別の感覚と重なったり置き換えられた、共感覚的な出来事である。音は見え、色は聞こえ、光景は香るなど。

真に伝わってくるのはリズムだ。このリズムは、若い女性のそばを歩く青年の上気する心を伝えている。彼の増幅する幸福感が、意味的にではなく、音響的に伝わってくるのである。

言葉の持つリズム、音域、擬音は、聴取者と読者(静かなる聴取者)の中に共感覚的な変質を形成するのだと、詩人なら誰もが言うだろう。

言葉から音楽が生まれる。

部分と全体(the Part and the Whole)

アキレウスには形容語句が添えられている。「蛇足の」アキレウスだ。この形容語句は、名札のようなものだ。読者やホメロス自身の記憶を助けてくれる装置にもなる。これらの形容語句は描写というよりは様式化されたものだ。

ヘーラーの目は、ある程度は、その人物設定全体を言い表すものだ。彼女の部分であり、彼女の全体性を表す代理だ。ヘーラーの目は、換喩と言われるものの例である。換喩は、ひとつの物(または概念)が、関連する何か別の物(または概念)で呼ばれる比喩的表現のことである。

もっと特定的に言えば、ヘーラーの目は提喩の例である。提喩とは、部分が全体を表す換喩である。

部分は全体の一部であるという「部分―全体関係」の理解は、現実世界を理解して、その理解を他者に伝えるためにはとても重要な道具である。

この部分から全体を推定する生まれ持った能力は根本的かつ再起的で、私たちは部分―全体構造を理解することで、現実世界において精神的にも物理的にも何らかの方法で機能できるようになるのと同じように、登場人物を見ることができ、物語を見ることができるようになるのだ。

形容語句と隠喩は名前ではない。しかし、どちらも説明ではない。作者が登場人物の代わりにどの要素を選ぶかというのは非常に重要な問題だ。そのやり方によって、作者は、その登場人物をさらに定義づけることになる。

ぼやけて見える(It is Blurred)

世界は断片からできている。不連続で、散らばった、断続的な点。

私たちは、自分自身や周囲のことを読み取り、形容語句を与え、隠喩、提喩、換喩することによって知る。世界で一番愛している人のこともそうだ。彼らの断片と彼らに置き換えられたものを読み取っているのだ。

私たちは未完成で進行中である世界の断片を、時間をかけてつなぎあわせ、統合しながら理解していく。

作家は経験をキュレーション(収集・整理・管理)している。世界の雑音をろ過して、その雑音の中から可能な限り純粋な信号をつくる。つまり、無秩序から物語を作るのだ。

私たちの脳は、世界中に存在する、ろ過されていない暗号化された信号と同様に、本というものもろ過されていない信号とみなしている。つまり、作家の著作は、読者にとっては、雑音という種に属しているのだ。作家の世界観をできるだけ自分たちの中に飲み込んで、私たちの思考の中にある蒸留機の中で、その素材を自分たち自身の世界と混合し、組み合わせ、何か唯一独特のものに変質させるのだ。

本を読むという活動は、意識そのもののように感じ、また、意識そのもののようなものだ。つまり不完全で、部分的で、かすみがかっていて、共同創作的なものなのである。

物語を思い描くことは、絵の中で人物が影にされてしまうように、要約することである。そうすることで意味を作り出す。

細部ではなく、あくまで輪郭を描くのだ。


創作の極意と掟


凄味

自分の表現するものの正当性があまり正当でなく、ちょっとズレていた方が凄味が強く出る。私の感覚は正しいと主張して少しまともではない感覚を表現する方が、凄味があるのだ。

逆に、自分の考え方すべてに自信満々という人の書いたものには、まったく凄味がない。なぜ自信満々なのかというと、その考え方が誰にでも受容できる凡庸な、陳腐極まりないものであることが多いからだ。それが良識のつまらなさであり、普遍的な価値観の退屈さであり、自動的な思考の馬鹿らしさなのである。

技巧によって凄味を出したりもする。理解不能な人物を登場させたり、舞台設定をあやふやにしたり、登場人物の心に存在する闇の部分を仄めかしたり、作者であることの優位性を利用して必要なことを読者に教えなかったり、ここから先は作者にしかわからないのだということを強調したり、つまりはその作品世界の「底の知れなさ」を読者に感じさせるのである。

色気

主として文中に、ほとんどは作者が意図せずして生み出し、時には湧き出させ、稀に横溢させている色気のことである。

そもそも小説は情感を伝えることが大事であり、たいていの作品はそれを意図して書いている。いかにして自分の情感を伝えるか、そのためにはどのような表現をすればよいかに腐心する。だから、どのような小説の文章にも色気があるのは当然と言える。

「死」や死に直面する「恐怖」は、案外色気と結びつくのである。「すぐ傍らに死があるから『いまの瞬間』をこのうえなく美しく感じたのだろう」

通常想像する色気のある文章とは、情感たっぷりの、情緒纏綿たる、形容過多の文章である。そのような文章の対極にあるのがハードボイルドの文体だ。簡潔な、ぽきぽきと釘が折れたようなと形容されることの多い文章だ。では、ああいった文章に色気はないのかと言えば、ちっともそんなことはない。

揺蕩

【揺蕩】ようとう
 ゆれ動くこと。ゆり動かすこと。動揺

小説家というのは、考え方を理論化するのではなく、小説にしなければならないのだ。体系立てていないままの考えであり、それを小説に書こうとしているうちは、辻褄の合わぬところが生まれてくる。登場人物の主張や考え方が、前半と後半で違ってきていたり、作者つまり語り手のある事象に関する価値評価や判断がふらふらと揺れ動き、確定しない。こういう「揺蕩」を批評用語でアポリアと言う。この揺蕩を作家は恐れてはならない。

その揺蕩ゆえに新しさが発見されたりもするし、実際に批評家たちはこのアポリアを珍重して、その作家を理解する一助とすることもあれば、その作品の新しさや作家の言いたいことを発見したりもする。

精神の揺蕩を持たぬ人がいるだろうか。それはその人の成長の証なのかもしれないではないか。

迫力

創作において迫力を生む題材といえば「対立」であろう。主人公と何者かの対決。運命との対立、社会との対立という小説もあり得るが、その場合は運命や社会を体現している他者が登場することになる。

善悪の対立。主人公を悪にしてしまう方法があり、これだと文学にもなり得るだろう。悪を描こうとする時、作家は自分の中にある悪の部分を顕在化させ、見つめなおすという作業が必要になってくる。作者がどこまで、そして如何に自分自身の中の悪と対決ができるかが迫力の源となってくるだろう。

自分自身の脆弱な部分、卑劣な部分、臆病な部分を前景化させ、時には拡大したりするのは、私小説において壮絶な迫力を生む。自分自身との対決の中でも作家にとって特に過酷なのは、自身の俗物性との対決であろう。作家としてその俗物性を追求し、対決しなければならないのだと思う。けち臭さ、名誉欲、虚栄、金銭欲、色好み、世間体、嫉妬心、好奇心、美食、アルコール依存など数えあていけばきりがない。俗物性との対決は、作家にとって不可欠の作業である。これが創作においてどれだけ役に立つかは計り知れないものがあるのだし、そこには迫力の源が存在する。

最期の対決の相手は「死」である。主人公または作家が対決しなければならない最大のものが死であり、最大の迫力を生むのが死である。

展開

迫力ある筋運びとテーマなどの思索、この両極端な面白さを共に表現し続けるという展開を強いられる場合は大変多く、恐らくこれが展開を考える上で一番重要であり、一番の問題なのではないかと思う。

会話

会話で迫力を生むのはやはり対立であろうか。二人、または三人、または四人と、価値観の異なる人間が対立する図式は、実にまことに小説的である。対立でなく説得であってもいいし、交渉であってもいい。表面的には日常的な挨拶の裏にも対立があったり、恋愛の睦言の裏にも説得や交渉があったりする。とにかく会話は個性の異なる人物によってなされなければならないだろう。

夏目漱石の「明暗」。一見それは日常用語の会話であるようだが、裏に壮絶な対立を秘めている。会話の凄味を増しているのが地の文である。この場合は会話の読みやすさとは逆の難解さで、その単純さを補うかのように地の文は文学的、というよりは心理小説的、といった方がいいような文章によって、言語や行為の裏を読んでいる。それによって会話までが凄味を増す。












南部先生、ペンタクォークが見つかりましたよ



身の回りの物は何でできているのか?
好奇心を突き詰めると、小さな粒に行き当たる。
その粒が2、3個集まった粒子は知られているが、
5個も集まった粒子が、新たに見つかった。
その名も「ペンタクォーク」だ。

お久しぶりです。福田大展です。5つの素粒子で作られる粒子「ペンタクォーク」の存在を確認したという研究成果が14日に、欧州原子核研究機構(CERN)により発表されました。冥王星の美しい画像に見とれていたら、ツイッターでこのニュースを見つけたので、久しぶりに慌てて筆を取りました。ペンタクォークとはどんな粒子なのか? どんな実験で見つかったのか? じっくり見ていきましょう。


すべての原子は3種類の「素粒子」でできている

あたりを見回してみてください。何が見えますか? 私は本屋にいるので、本棚やたくさんの本が並んでいます。立ち読みをしている人の姿も見えます。皆さんは私と違う風景が見えているでしょう。しかし、私が見ているものも、皆さんが見ているものも、目に見えるすべての物質は、たった数種類の小さな粒「素粒子」でできているんです!



身の回りのものは原子でできています。どんどん細かく見ていきましょう。原子は中心にある原子核と、周りにある電子でできています。そして、原子核は陽子と中性子が集まったもの。さらに、陽子と中性子はアップクォークとダウンクォークという2種類の粒でできています。つまり、突き詰めると原子は「電子」と「アップクォーク」と「ダウンクォーク」の3種類の素粒子でできているんです!

物質をつくる素粒子は何種類?

物質をつくる素粒子は、この3種類だけでしょうか? 小林誠博士と益川敏英博士は1973年、「6種類のクォークがある」と理論的に予測しました。先ほどの「アップ」と「ダウン」に加えて、「チャーム」、「ストレンジ」、「トップ」、「ボトム」です。現在では、6種類のクォークが実際にあることが実験で確かめられ、2人は2008年にノーベル物理学賞を受賞しました。さらに、レプトンと呼ばれる電子の仲間も、6種類あることが分かっています。




そして、物質をつくる素粒子は上の図で示した12種類なのですが、それぞれに「影武者」がいるんです。質量はまったく同じで、帯びている電気のプラスとマイナスが逆になった「反粒子」です。




ペンタクォークってどんな粒?

今回、注目されているのはクォークです。クォークには「強い力」というクォーク同士を引きつける力が働き、複数のクォークが集まってひとつの粒子を作ります。一番身近なのが、先ほどの説明にもでてきた、陽子と中性子です。いずれも3つのクォークからできています。このように3つのクォークからなる粒子を「バリオン」と呼びます。また、クォークと反クォークのペアでできたものを「中間子(メソン)」と言います。



さらに、4つ集まったものを「テトラクォーク」といい、5つ集まったものが今回の主役の「ペンタクォーク」なんです。この4つと5つが集まった粒子は、理論的には存在すると考えられていますが、まだ確実には見つかっていませんでした。

どうやってペンタクォークを作ったのか

時速100kmでまんじゅうとまんじゅうが正面衝突したとします。(福田はいきなり何を言っているんだ!暑さでおかしくなったのか)何が飛び出てくると思いますか?



あずきの粒やあんこ、餅が砕け散って飛び出てくるでしょう。つまり、まんじゅうの中にあるものが出てきます。しかし、陽子と陽子をほぼ光の速さでぶつけると、面白い現象が起こるのです。陽子の中にはアップクォークとダウンクォークがあるので、普通に考えると、それらの粒が出てきそうですが、まったく違う粒が飛び出してくるのです!


陽子をほぼ光速でぶつける

これが陽子をほぼ光速に加速して衝突させる実験装置です。その名も、大型ハドロン衝突型加速器「LHC」。大型というだけあって、大きさは1周27km。地下100mの地下に山手線一周(34.5km)に近い長さのトンネルが掘られています。そのトンネルの中で、陽子を光速の99.999997%まで加速させます。そして、1秒間にトンネルを1万周ほど回る速さまで加速させた陽子を、「ガシャン!!」と正面からぶつけるのです。この装置の中には、衝突を観測する4つの巨大な検出器があり、そのひとつが今回ペンタクォークを見つけた「LHCb」と呼ばれるものです。



陽子と陽子の衝突の瞬間には何が起こっているのでしょうか。なぜ違う粒が飛び出してくるのでしょうか。その謎を解く鍵を握っているのが、この式です。



アインシュタインが考えた相対性理論に関係する式で、一度は耳にしたことがあるかもしれません。「E」はエネルギー、「m」は質量、「c」は光の速度です。この式は「エネルギーと質量は変換できる」ということを意味しています。つまり、エネルギーは質量を持つ粒子に変えられるし、その逆も成り立つということです。

具体的に見てみましょう。陽子と陽子をほぼ光速で衝突させると、粒はいったんエネルギに変わり、とても大きなエネルギーが生み出されます。そして、そのエネルギーの大きさに見合った別の粒子が新たに生み出され、飛び出してくるのです!




実際の実験では何が起こったのか

それでは、今回の実験では衝突の瞬間に何が起こったのかをじっくり見てみましょう!(強い意志を持ってついてきてください!)



【①】陽子の衝突のエネルギーで最初に生み出されたのは、「ラムダ粒子(Λ)」というバリオンの仲間でした。ラムダ粒子にはいくつか種類がありますが、今回のものは「ラムダb」という粒子で、アップとダウン、ボトムでできています。

【②】せっかくできたラムダ粒子ですが、一瞬で崩壊して別の2種類の粒子に変わってしまいます。そのひとつが、ペンタクォークだったと考えられているんです! 5個のクォークの内訳はアップが2個、ダウンとチャーム、反チャームが1個ずつです。そして、壊れでできたもうひとつの粒子が「K中間子」の仲間です。K中間子にもいくつか種類があるのですが、今回のものは「マイナスの荷電K中間子」で、ストレンジと反アップでできています。

【③】しかし、このペンタクォークも一瞬で崩壊して、2種類の粒にかわってしまいます。ひとつは陽子。もうひとつは「ジェイプサイ中間子(J/ψ)」と呼ばれる中間子で、チャームと反チャームのペアでできています。

【④】さらにジェイプサイ中間子は、2つのミュー粒子に崩壊します。



上の図が実際LHCbで観測した実験結果です。確かに、最終的にK中間子と陽子、2個のミュー粒子が飛び出していますね! しかし、皆さん思いませんか。検出されたのは、K中間子と陽子と2個のミュー粒子なのに、「なぜ途中の崩壊するプロセスまで分かるの?」って。

先ほどの建設途中のLHCbの写真を見ると、アヒルのくちびるのような形をした黄色い物がありますよね。実は、あそこに電流を流すと巨大な電磁石になるんです。そして、衝突によって発生した粒子が電磁石の間を通るときに、電荷を持っている粒は曲がります。その曲がり具合から、飛び出してきた粒子の運動量(質量×速度)や、帯びている電気の量がわかるんです。さらに、粒子の速度や、軌跡から崩壊した場所を特定する装置も備わっています。なので、検出された粒子の情報から元をたどっていけば、崩壊する前の粒子の質量などが計算で求められ、どんな粒子か推測できるのです!


▼南部先生
私がこの記事を書いている最中に、南部陽一郎先生の訃報を知りました。私は福井県の藤島高校の卒業生なのですが、南部先生はその前進の旧制福井中学をご卒業されており、私の大先輩にあたります。直接の接点はありませんが、科学館で働き始め、素粒子物理学のことを知れば知るほど、南部先生の偉大さが身にしみました。

南部先生は「対称性の自発的破れ」という理論の発見で、2008年のノーベル物理学賞を受賞しました。そして、それだけでなく、2013年に同賞を受賞した「ヒッグス機構の理論的発見」の考え方にも、大きく影響を与えています。(そのときの話は、このブログでまとめています。)

「世の中はどんな法則でできているのか」という根源的な知的好奇心に対し、南部先生の研究は何度も私の心を鷲掴みにしてワクワクさせてくれました。良い小説や音楽と出会った時のように、ドキドキさせてくれました。ありがとうございました。お悔やみ申し上げます。南部先生は研究の最前線から離れてからも、学問への向上心は持ち続けていたと聞いています。南部先生は今、ペンタクォークの発見のニュースを聞いて、何を思っているのでしょうか。

























経緯

5つの素粒子で作られる粒子「ペンタクォーク」を発見したという研究成果を、欧州原子核研究機構(CERN)が14日に発表した。 大型ハドロン衝突型加速器(LHC)に設置された実験装置のひとつの「LHCb」を使った研究チームが検出した。


ペンタクォークとは

▼バリオン
3つのクォークで構成される。スピンが半整数のフェルミオン。例えば、陽子(uud)や中性子(udd)などがある。

▼メソン(中間子)
クォークと反クォークのペアで構成される。スピンが整数のボゾン。

▼テトラクォーク


▼ペンタクォーク
クォーク4個と反クォーク1個で構成される重粒子。


LHCb実験

大型ハドロン衝突型加速器「LHC」では、陽子と陽子を正面から衝突させてエネルギーを生み出し、その中から生まれる粒子を検出する実験装置。主に4つの巨大な観測装置があり、それぞれ「ATLAS」「CMS」「LHCb」「ALICE」という名前の検出器がある。


LHCb(LHC-beauty)では、ボトムクォークを含む「B中間子」をたくさん作ってその振る舞いを調べ、標準理論を検証している。写真は建設途中のLHCb。

実験結果

バリオン「Λb」が、以下の3つの粒子に崩壊した。
「J/ψ中間子」「陽子(proton)」「K-・荷電K中間子(Kaon)」

できたペンタクォークは、以下の5つの素粒子で作られていたと考えられる。
2個のアップクォーク(u)、ダウンクォーク(d)、チャームクォーク(c)、反チャームクォーク(anti-c)

ラムダ粒子とは、アップクォーク(u)とダウンクォーク(d)、もう一つのクォークでできたバリオン。ボトムラムダ(Λb)は(udb)。

J/ψ中間子とは、チャームクォークと反チャームクォークからなる中間子。別名チャーモニウム。
K中間子には、K-、K+、K0、K0バーの4種類がある。K-はストレンジクォークと反アップクォーク、K+は反ストレンジクォークとアップクォーク、K0は反ストレンジクォークとダウンクォーク、K0バーはストレンジクォークと反ダウンクォークでできている。K-とK+は荷電K中間子と呼ばれる。K0とK0バーは中性K中間子と呼ばれる。





超暗黒銀河

ニュース

かみのけ座銀河団の中に 854 個もの「超暗黒銀河」を見つけた。
昨年のおわりに 47 個の超暗黒銀河が初めて見つかり話題となっていた。
かみのけ座銀河団内での分布や、超暗黒銀河の中にある星の種族が明らかになった。

暗黒銀河とは

恒星がほとんどなく、暗黒物質の巨大な重力によって支えられている銀河。少しはガスや塵も含まれている。

超暗黒銀河とは

銀河系のわずか 1000 分の1の明るさにもかかわらず、大きさは銀河系と同程度にまで広がっているという、非常に淡い光の銀河。光では見れない大量の暗黒物質が存在し、その重力が星を銀河内部にしばり付けているのではないかと考えられている。力学計算から、星などの「光で見える物質はたった 1% 以下」で、残りの 99% 以上は暗黒物質が占めている。

超暗黒銀河はどのようにできたのか

超暗黒銀河が古い星の種族で構成された古い天体であることが判明した。かみのけ座銀河団の中での分布は他の銀河と同じように中心に集まっていることから、銀河団の外から最近落ちてきたものではなく、銀河団内に古くから存在していたと考えられる。

銀河ができた後に、何らかの形で星の材料となるガスが失われ、星を作るのをやめてしまった結果だと考えられる。

ガスが失われた原因として、3つの可能性が挙げられる。
① 銀河団ガスの風圧による押し出し
② 銀河団内の別の銀河との重力相互作用によるはぎ取り
③ 銀河団環境に誘発された銀河内部での同時多発的な超新星爆発によるガスの押し出し


アーカイブから発見

国立天文台ハワイ観測所では1999年の観測開始以降、すばる望遠鏡で得られたすべての観測データを大切に保管し、観測後1年半以上経ったデータはすべて全世界に公開している。今回の「お宝発掘」は、このような公開されたアーカイブデータの中から行われた。アーカイブを使った研究成果が発表されることも多く、すばる望遠鏡アーカイブのさらなる活躍も期待されています。


かみのけ座について

確認されただけで1000個以上の銀河がある。
しし座銀河団を合わせてかみのけ座超銀河団とも呼ばれる。
地球からの平均距離は3.21億光年。
中央には2つの巨大な楕円銀河がある。(NGC4874とNGC4889)


研究チーム

幸田仁 (米国・ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校)
今後の分光観測によって星形成の歴史を研究し、超暗黒銀河の形成過程を探りたい

八木雅文 (国立天文台/法政大学)
山野井瞳 (国立天文台)
小宮山裕 (国立天文台/総合研究大学院大学)


プレスリリース

854個もの「超暗黒銀河」をすばる望遠鏡のアーカイブから発見

疑問

▼背景
→「超暗黒銀河」の定義は
「超暗黒銀河」が見つかっているのはかみのけ座だけか

▼今回の研究
→どのように発見したのか
→「超暗黒銀河」はどのようにできたのか
→3つの説のうち、一番有力そうなのはどれか
→どのようにガスや塵を失ったのか


▼今後の展開
→今後はどのような研究につながっていくのか

▼その他
→アーカイブから発見することはどれほど珍しいのか
→この研究の楽しくてたまらない瞬間は
→この研究分野で今一番ホットな話題は



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