文体の科学



第1章 文体とは「配置」である

文章(文体・style)は思想を彫らねばなりませぬ。それゆえ名文を書くためには主題に精通せねばなりませぬ。これにじゅうぶんの省察を加え、もって思想の秩序をはっきりと見極め、思想に適当の順序をほどこし、おのおのが一個の観念を表示するところの連鎖を作らねばなりませぬ。
(「ビュフォンの文章講演」)

文章の書き手がある主題について考えたこと(思想)とその配置こそ文体の本質であり、これは他人が盗み取れるものではない。というのも、文体とは人がものを考える際に設ける秩序と運動なのだから。

文章を書く人がどんな言葉を配置するかという点については、おのずとその人の経験と記憶が問題となる。人が文章を書く際に用いることができるのは、基本的に自分の脳裡に収まっている言葉だけである。私たちは文章を書くつど、それまで目にしてきた言葉や耳にしてきた言葉の経験とその記憶を活用して、そこから組み合わせを生み出している。言い方を変えれば、自分の記憶こそが言葉を選び出す際の母体である。

第2章 文体の条件―時間と空間に縛られて


第3章 文体の条件―記憶という内なる限界

そもそも言葉というもの自体が、さまざまな事物や経験を、コンパクトに圧縮保存するための記憶装置のようなものだ。言葉が記憶を圧縮して保存しているようだ。言葉がきっかけとなって、人間の脳裡に収められた記憶が顕在化するといったほうがよい。言葉とは、記憶に蔵された何かを引き出すための鍵のようなものだ。

第4章 対話―反対があるからこそ探求は進む

ガリレオ・ガリレイの「天文対話」。正式な書名はもうちょっと長くて「プトレマイオスとコペルニクスとの二大世界体系についての対話」という。

何かを「知る」とはどういうことか、これが対話の隠れた主題なのだ。

なぜわざわざ対話にするのだろうか。ガリレオは、対話形式を採る利点をこう述べている。

「対話であれば数学上の法則に入念な注意を払わねばならぬということはなく、またときとすると主要な論証に劣らず興味のある脱線の余地も多いからです」

同じことを論文のような独話体で書こうと思ったら、数学的論証を細かいところまできっちり書いてしまわねばならない。この書物で検討したいのはそうしたことではなく、むしろ「天地のいずれが動いているのか」という大問題をどういう理路で考えるかという道筋だ。

対話なら「主要な論証に劣らず興味のある脱線」ができる。そもそも脱線とは何だろうか。一体どういう立場に立つと、ある議論が「脱線」していると感じられたり、そう判断できるのだろうか。それは、進むべき「本線」がすでに決まっている場合だ。

ことにある問題を巡って、決定的な結論が予め分かっていないような場合、つまり、到着点が見えないまま、探りながら進んでいくような場合、そもそもなにが「脱線」でなにが「本線」かということは、事の次第からして決めることはできない。そのような見方ができるとすれば、どこかに到着した後で、辿ってきた足跡を振り返ってみて、「ああ、ここに来たいのなら、もっと近道があったな」と事後的に「本線」と「脱線」を発見することだろう。だが果たして、その「脱線」がなければ、今立っている場所に辿り着いたかどうか、定かではない。

一つの問題を巡って、三人の人物がときに意見を対立させて歩み寄ったり行きつ戻りつしながら、共に試行錯誤してゆくその様こそが、ぜひとも必要だったのである。

対話という形式であれば、私たちの日常的なおしゃべりがそうであるように、話はあちらこちらへ遊んでよい。むしろ、対話の醍醐味は、独話では隠されてしまいがちな右往左往の過程、ああでもないこうでもないという試行錯誤の過程そのものを俎上に載せやすいという点にある。一足飛びに「結論」だけを欲しがるのではなく、どんな検討や試行錯誤を経て、その結論へと至ったのかという道筋を示せるのだ。ガリレオが、対話なら脱線できる余地があると言ったのは、恐らくこうした意味なのだろう。

この対話の場では、参加者相互の間に何が生じているのだろうか。「天文対話」を見る限り、サルヴィアチとシムプリチオは、互いに同じ意見に達して合意したりはしていない。しかし、「天文対話」が素晴らしいのは、むしろ議論が決着しないところにある。容易には分かり合えない者同士が向き合っているからこそ、自分にとっては自明と思えることも、意見の違う相手に向けてきちんと言葉にしたり、対話の過程を通じて、様々な角度から検討が重ねられてゆくのである。

二人の人がいて、互いに考えることが部分的にであれ「一致する」とはどういうことなのだろう。異なる人間は、当然のことながら異なる人生を歩み、異なる来歴を持っている。脳裡にある知識や経験やものの考え方、記憶のあり方は、人それぞれで違っている。そう考えると、むしろ人々が合意できること、理解し合えることのほうが不思議にさえ思えてくる。

自分の言葉がどのように受け止められたかを、直接確認する術はない。他人の頭の中を覗くことはできないし、心中なにが渦巻いているかを知ることはできない。ただ、サグレドやシムプリチオの言葉や表情や身振りといった外面に現れて、こちらにも知覚できるなにかを見聞きして、推し量る他はない。虫の居所や何を信じたいと望んでいるかといったこと、感情や信念が事態をいっそう複雑にする。

他人が何を考えているのかは分からない。というよりも、何がどうなったら他人の考えが分かったことになるのかということさえ、実はよく分からない。

私たちは言葉を使うとき、自分が言わんとすることを、既成品である言葉という鋳型に流し込み、組み合わせて提示しているのである。人の脳裡心中は分からないという大問題については、後で「小説」について考える際に、もう一度真正面から向き合うことになる。

それでも対話を続けているのが面白い。理解より無理解があるからこそ、互いの違いがいっそうはっきりと浮かび上がり、問題点が鋭く顕わになる。意見が一致せず、すれ違い続ける。だからこそ、対話は続く。言葉を尽くすほど、互いに脳裡で考えていることがより多角的に現れてくる。

現在、書物のほとんどは独り言のように書かれている。それを書いたり読んだりするのはどういうことなのか。その独り言を入れて移動できるように形を与える書物とは何なのか。実は、本書全体の底には、このようなぼんやりとした疑問がある。


第10章 小説―意識に映じる森羅万象

その世界に存在しているということは、猫が思い出せる前にどこかで生まれたのであり、最初の記憶がある時点までの間も、なんらかの生活を営んでいたはずである。しかし、記憶を語る以上、思い出せないことは語りようもない。つまり、猫の記憶、しかもそうしようと努めて思い出せる記憶が、この語りの材料のすべてである。猫が経験しても記憶していないこと、記憶には刻まれていても思い出せないことは、語りたくても語れないのである。そうした記憶が蘇るには、きっかけが必要だ。例えば、ある男が紅茶に浸したマドレーヌの風味から、長い長い記憶を想起するように。

主に二つのことに注目した。一つは、書かれていることと書かれていないこと。もう一つは、この場面の時間の流れ。いずれも、小説という種類の文章について考える上で、非常に重要な点である。

書生が猫を見つけて拾い上げるまでのあいだ、一匹と一人、そして両者が存在する場所を構成するあらゆる物事とその変化、時間とともにそこで生じるすべての出来事のうち、カメラで撮影できるものだけが映像に映る。内心のようにカメラで撮影できないものは映らない。仮に、この映像に映る様子が全体だとしたら、先ほどの文章に表されているのは、その一部だ。書かれていることに対して、書かれていないことが膨大にある。

作家は小説を書くにあたって、必ず取捨選択を行っている。ある情景を書くとき、すべてを書き尽くすことはできないとしたら、何を書くのか。どのような言葉で書くのか。言葉をいかに配置するのか。ここにこそあらゆる小説の秘密がある。小説の文には、書き手がどのように世界を見ているか、どんな経験を重ねてきたか、どのような言葉を脳裡に蔵しているか、そういったことが否応なく現れるのである。それがいわば作家の「文体(style)」を形作っている。だから、仮に「同じ」場面を描くとしても、書き手が何に注目して、何を取り、何を捨てるか、それをいかなる言葉で表すか、つまり選択と省略の仕方によって、まるで異なる状況が描き出されることになる。

小説の文章は、複数の視点や時空間が撚り合わされている。そうした複雑な状況が、厳しく取捨選択された言葉で編まれている。

本を手に取り、小説を読み始めると、一本の線状に並んだ言葉に沿って、目と意識が働き、手はその流れを助けるようにページを繰る。小説に没頭すればするほど、最前まで次々と私の注意を奪い去っていったざわめきが背後に退いてゆき、言葉の流れにすっかり心身を委ねることになる。その言葉の綾をたどる読者の心中で、ある出来事が生じ、変化してゆく様が浮かんでは消え、ある気分が催される。小説とはそのような一種の秩序を与える言葉の装置なのだ。その秘密の鍵は、人間の「意識」の中にある。


小説には何がどのように書かれているのか。このことを徹底的に考え抜いた人の一人が、夏目漱石だった。彼がロンドン留学を経て、帝国大学で講じた一連の講義、特に「文学論」として後にまとめられた考察は、今もなおこのことを考える上で非常に重要な考え方を示している。

漱石の狙いは、多様なかたちをとる文学全般を、できる限り普遍的に、根底から捉えてみることだった。それを煎じ詰めたのが、同書の開口一番に説かれる「F + f」という定式であり、「文学論」全体がこのことの意味を説くために書かれている。

【 F + f 】(認識)+(情緒)
F:焦点的印象または観念、認識的要素、知的要素
  感覚、人事、超自然、知識の4種類に分類できる。
  人が何かを思い浮かべること、認識すること。
f:情緒
  喜怒哀楽や恐怖、怒り、同情、恋心など。

「F」と言われているのは、「焦点的印象または観念」を記号で表したもの。恐らく「Focal impression or idea」のこと。また、Fを「認識的要素」や「知的要素」とも呼んでいる。もう少し具体的には、感覚、人事、超自然、知識の四種類に分類している。言ってしまえば、人が何かを思い浮かべること、認識することを指している。他方で「f」とは「情緒」であり、こちらは「feeling」を指すと思われる。喜怒哀楽や恐怖、怒り、同情、恋心などがこれに当たる。漱石は、およそ文学作品は人間が思い浮かべる「認識」と、それに伴う「情緒」という二大要素から構成されているというのだ。

満開の桜を眺めて(知覚)
「実にいいものだ」と感じ入る(情緒)

書生という人間の噂を聞き(知覚・知識)
恐ろしいと感じる(情緒)

こうしたさまざまな「F + f」によって、文学は作られているというのである。


「焦点」とは何か。漱石は、当時の心理学(現在でいう認知科学や神経科学とも重なる)を念頭に置いている。

心理学者ウィリアム・ジェイムズの「意識の流れ(Stream of Consciousness)」という捉え方を踏まえている。ジェイムズは、人間の意識とは絶えず流れてゆく川のようなものだと喩えた。

イギリスの心理学者ロイド・モーガンは、その「意識の流れ」という見方に立って、もう一歩を進めた。つまり、人間の意識をさらに積極的に「波」に喩えて表現した。私たちの意識は、時々刻々絶えず波打って流れている。ある事柄が意識に現れたかと思えば、次第に消えてゆき、また別のものが次第に現れてくる。その波の頂点を、モーガンは「焦点(Focus)」と呼んだ。



私たちは自分の意識の状態ひとつでさえ、まともに記述することはできない。複雑すぎるし、ジェイムズが喩えたように川のごとく絶えず流れており、移ろう。それに対して、言葉というものは、あまりに粗雑すぎるかもしれない。だが、言葉という既成の鋳型を使うことで、私たちは、そうした変化し続ける波の連続から、なんとかその幾ばくかをすくい取り、固定して、他の人に伝えられるのだ。そして、文学作品では、人の意識の波の一部、意識に浮かぶもの、その波の「焦点」を、言葉で縫い取っている。これが漱石の言う「F」である。


文学においては、何を描こうとも、そこには必ず人間の知覚や思考、記憶、情緒が反映されている。作家は、小説を書くにあたって、自らの意識の流れの中から、ある焦点を選び、それを表す言葉を記憶や辞書に探って選び、言葉の配置を選んで文を成し、文の配置を選んで文章を構成する。描かれる事柄は、人間であれ自然であれ人工物であれ無機物であれ、人間の意識に映じたかたちで表現されることになる。そこには当然のことながら、作家が生きる時代における人間理解、心と体の両面に関して諸学術が明らかにし得たことや世界観が反映されている。

人間の意識の性質を踏まえることこそが、文学なるものの本質に迫ることである。漱石はそう考えた。


本を読むときに 何が起きているのか


フィクション

ほとんどの小説家は、登場人物の身体的特徴よりも、その行動について詳細に描く。

人物描写は一種の輪郭作りだ。登場人物の特徴は、その輪郭を言葉で説明したものである。その人物の意味合いをはっきりさせるためだけに必要な特徴だ。

テクストが明らかにしていないものこそが、私たちの想像力を誘発する。私は自問する。作家の描写が省略が多く抑制的であればあるほど、私たちはより詳細に、この上なく鮮明に想像できるのではないだろうか?

登場人物は暗号である。そして物語は省略によってより豊かになる。

究極的には、登場人物が、架空の輪郭づけられた世界に登場するすべての人物や事象に対しての関係性の中で、どのような行動をとるかということが重要なのだ。

私たちは常に、小説の登場人物の像を脳裏に思い返し、再考し、修正して、さかのぼって再確認し、新しい情報を得るたびに更新するのだ。

時間

私にとって最高の本とは、高速で進みながらも、時折、人を停車させて路肩で驚かそうとする、そんな本だ。

ジェイムズ・ジョイスの小説の登場人物であるバック・マリガンは、「ユリシーズ」の冒頭においては、単なる記号にすぎない。しかし、小説の中で彼と他の登場人物との交流を知っていくと、より微妙なニュアンスを帯びてくる。ダブリンの人々とのやりとりから、彼の別の側面が見えてくる。ゆっくりと、バック・マリガンは複雑になっていく。

すべての文学作品の中の登場人物のキャラクターがそうであるように、バックのキャラクターも、行為と行為の相互作用から生まれた、複雑な現象と言える。

ナイフは、切るという行為によってナイフになる。

登場人物はその行為によって理解される。まるで後を追っている人を見るかのように、登場人物を思い描くのだ。群衆の中に飛び出た頭、角を曲がる上半身、見逃してしまいそうな足元・・・。フィクションにおいて、このバラバラな部分を集める行為は、実生活で人と場面を一致させる方法と似ている。

鮮やかさ

イメージの特定性と文脈がはっきりしていればいるほど、より鮮明にイメージは呼び起こされると、ナボコフは主張しているようだ。

描写の「真」の感覚は、その描写の特定性によるものだ。

描写は加法的ではない。しかし、見えているもの(光景)は加法的であり、同時発生的だ。

素描する

私が輪郭を捉えようとする形象の遠近感は、紙の一歩手前に、鉛筆の削ってないほうの端に。つまり、私の内部にあるのです。

私は、想像とは視力のようなものだと思う。つまり、ほとんどの人間が持つ能力である。しかし、もちろん、視覚を持つ者が全員同じ視力で見ているわけではない・・・。

あいまいで不完全な想像を超えられないことが真実ならば、それこそが、文字による物語が愛される究極の理由ではないだろうか。つまり、時に我々は見たくないのだ。

共同創作(Co-Creation)

良い本は、作家が提案したものに書き加えていくように、読者の想像力を誘発する。この共同創作の行為やパーソナライズ(個人化)がないと、読者には次のようなものしか与えられない。

私たちは、本の内容を想像するとき、その本が与えてくれる流動性や気まぐれを望んでいる。見せてもらいたくないものもあるのだ。

読書しながら見るこれらのイメージは、個人的なものである。私たちが見ることのないものが、作家がその本を書くときに描写したものである。つまり、すべての物語は変換されるべく、想像的に解釈されるべく書かれているのだ。その連想的に解釈されたその物語は、私たちのものなのである。

おそらく、役と舞台装置という2つの言葉は、小説を解説するときにも使えるのではないか?

読者は、小説の舞台となっている場所、登場する物や人物が、自分の思い描く場所や物、人物と同一であってほしいと思う。この欲望は矛盾をはらんでいる。この欲望は本人以外立ち入ることができない極私的な領域にアクセスすることへの欲望であり、一種の強欲である。しかしそれは、その光景を共有しているという、孤独に対する防衛策でもある。

読者の想像の領域中での、作家の役割とはなんだろう?

目、視覚、媒体

私たちは想像のメタファーを内側へ向かうものとしてとらえている。外部の光景は、内部の視界を抑制するだけだ。わたしは目隠しをされて歩いていたような気分がします。この本はわたしに眼を与えてくれるように思います。

想像は「内心の眼」のようだと言える。

茫然と、または思いに沈んで
臥しどに身をよこたえるとき
彼等は、孤独のよろこびである
内心の眼にひらめくのだ
(ウィリアム・ワーズワース)

ワーズワースの水仙は、想像したというよりは記憶したものだ。水仙の花、その黄金のグラデーションと、けだるい揺らめきが、最初は詩人に感覚的な情報としてとらえられたのだ。詩人はそれを(おそらく)受け身で受容する。後になって初めて、これらの花が、詩の中に反映されたり能動的な想像の栄養になるのだ。

どこかの時点で、ワーズワースはこの水仙の花を内在化した。しかし記憶の原料は、おそらくは実際の水仙なのだ。

「星屑」のように広がる花の黄色が、私たち自身の「内心の眼」の前で「ひらめく」。


本から何かを想像するとき、私たちはどこにいるのだろう? どこにカメラはあるのだろう?

物語が一人称で語られるなら、そして特に物語が現在形で進むならば、私たち読者は自然と、行動を語り部の「眼を通して」見るようになる。

語りの声が三人称の場合、あるいは、一人称の物語の舞台が過去の場合(まるで友人が物語を思い出しているような)、私たちは自然と行為の「上」もしくは「横」にいる。私たちの有利な観点、例えば、物語の有利な観点は「神の視点」だ。

記憶と幻想(Memory and Fantasy)

想像の材料として、そして想像と混ざりあっているものとしての記憶が、想像であるかのうように感じるのではないか。そして、想像というものが、組み立てられた記憶のようにも感じるのではないかと思うのだ。

記憶は、想像上のものから作られていて、想像上のものは、記憶から作られている。

小説の出来事や付属物を思い描くという行為は、私たちに思いがけず過去を振り返らせる。そして私たちは、夢をたどるように残像の中を探り、ヒントや、失われた経験の断片を探すのだ。

言葉が効果的なのは、その中に何かを含んでいるからではなく、読者の中に蓄積された経験の鍵を開けることができるという潜在的な可能性があるからだ。言葉は意味を「含む」が、もっと重要なのは、言葉が意味の有効性を高めるということである。

私は「川」という言葉を読み、文脈のあるなしにかかわらず、その表面的な言葉の下へ潜り込む。

読者の記憶はすでに川の水で溢れている。作家はその水たまりをちょっとつついてくれればいい。

共感覚(Synesthesia)

読書の際に経験することの多くが、ある感覚が別の感覚と重なったり置き換えられた、共感覚的な出来事である。音は見え、色は聞こえ、光景は香るなど。

真に伝わってくるのはリズムだ。このリズムは、若い女性のそばを歩く青年の上気する心を伝えている。彼の増幅する幸福感が、意味的にではなく、音響的に伝わってくるのである。

言葉の持つリズム、音域、擬音は、聴取者と読者(静かなる聴取者)の中に共感覚的な変質を形成するのだと、詩人なら誰もが言うだろう。

言葉から音楽が生まれる。

部分と全体(the Part and the Whole)

アキレウスには形容語句が添えられている。「蛇足の」アキレウスだ。この形容語句は、名札のようなものだ。読者やホメロス自身の記憶を助けてくれる装置にもなる。これらの形容語句は描写というよりは様式化されたものだ。

ヘーラーの目は、ある程度は、その人物設定全体を言い表すものだ。彼女の部分であり、彼女の全体性を表す代理だ。ヘーラーの目は、換喩と言われるものの例である。換喩は、ひとつの物(または概念)が、関連する何か別の物(または概念)で呼ばれる比喩的表現のことである。

もっと特定的に言えば、ヘーラーの目は提喩の例である。提喩とは、部分が全体を表す換喩である。

部分は全体の一部であるという「部分―全体関係」の理解は、現実世界を理解して、その理解を他者に伝えるためにはとても重要な道具である。

この部分から全体を推定する生まれ持った能力は根本的かつ再起的で、私たちは部分―全体構造を理解することで、現実世界において精神的にも物理的にも何らかの方法で機能できるようになるのと同じように、登場人物を見ることができ、物語を見ることができるようになるのだ。

形容語句と隠喩は名前ではない。しかし、どちらも説明ではない。作者が登場人物の代わりにどの要素を選ぶかというのは非常に重要な問題だ。そのやり方によって、作者は、その登場人物をさらに定義づけることになる。

ぼやけて見える(It is Blurred)

世界は断片からできている。不連続で、散らばった、断続的な点。

私たちは、自分自身や周囲のことを読み取り、形容語句を与え、隠喩、提喩、換喩することによって知る。世界で一番愛している人のこともそうだ。彼らの断片と彼らに置き換えられたものを読み取っているのだ。

私たちは未完成で進行中である世界の断片を、時間をかけてつなぎあわせ、統合しながら理解していく。

作家は経験をキュレーション(収集・整理・管理)している。世界の雑音をろ過して、その雑音の中から可能な限り純粋な信号をつくる。つまり、無秩序から物語を作るのだ。

私たちの脳は、世界中に存在する、ろ過されていない暗号化された信号と同様に、本というものもろ過されていない信号とみなしている。つまり、作家の著作は、読者にとっては、雑音という種に属しているのだ。作家の世界観をできるだけ自分たちの中に飲み込んで、私たちの思考の中にある蒸留機の中で、その素材を自分たち自身の世界と混合し、組み合わせ、何か唯一独特のものに変質させるのだ。

本を読むという活動は、意識そのもののように感じ、また、意識そのもののようなものだ。つまり不完全で、部分的で、かすみがかっていて、共同創作的なものなのである。

物語を思い描くことは、絵の中で人物が影にされてしまうように、要約することである。そうすることで意味を作り出す。

細部ではなく、あくまで輪郭を描くのだ。


創作の極意と掟


凄味

自分の表現するものの正当性があまり正当でなく、ちょっとズレていた方が凄味が強く出る。私の感覚は正しいと主張して少しまともではない感覚を表現する方が、凄味があるのだ。

逆に、自分の考え方すべてに自信満々という人の書いたものには、まったく凄味がない。なぜ自信満々なのかというと、その考え方が誰にでも受容できる凡庸な、陳腐極まりないものであることが多いからだ。それが良識のつまらなさであり、普遍的な価値観の退屈さであり、自動的な思考の馬鹿らしさなのである。

技巧によって凄味を出したりもする。理解不能な人物を登場させたり、舞台設定をあやふやにしたり、登場人物の心に存在する闇の部分を仄めかしたり、作者であることの優位性を利用して必要なことを読者に教えなかったり、ここから先は作者にしかわからないのだということを強調したり、つまりはその作品世界の「底の知れなさ」を読者に感じさせるのである。

色気

主として文中に、ほとんどは作者が意図せずして生み出し、時には湧き出させ、稀に横溢させている色気のことである。

そもそも小説は情感を伝えることが大事であり、たいていの作品はそれを意図して書いている。いかにして自分の情感を伝えるか、そのためにはどのような表現をすればよいかに腐心する。だから、どのような小説の文章にも色気があるのは当然と言える。

「死」や死に直面する「恐怖」は、案外色気と結びつくのである。「すぐ傍らに死があるから『いまの瞬間』をこのうえなく美しく感じたのだろう」

通常想像する色気のある文章とは、情感たっぷりの、情緒纏綿たる、形容過多の文章である。そのような文章の対極にあるのがハードボイルドの文体だ。簡潔な、ぽきぽきと釘が折れたようなと形容されることの多い文章だ。では、ああいった文章に色気はないのかと言えば、ちっともそんなことはない。

揺蕩

【揺蕩】ようとう
 ゆれ動くこと。ゆり動かすこと。動揺

小説家というのは、考え方を理論化するのではなく、小説にしなければならないのだ。体系立てていないままの考えであり、それを小説に書こうとしているうちは、辻褄の合わぬところが生まれてくる。登場人物の主張や考え方が、前半と後半で違ってきていたり、作者つまり語り手のある事象に関する価値評価や判断がふらふらと揺れ動き、確定しない。こういう「揺蕩」を批評用語でアポリアと言う。この揺蕩を作家は恐れてはならない。

その揺蕩ゆえに新しさが発見されたりもするし、実際に批評家たちはこのアポリアを珍重して、その作家を理解する一助とすることもあれば、その作品の新しさや作家の言いたいことを発見したりもする。

精神の揺蕩を持たぬ人がいるだろうか。それはその人の成長の証なのかもしれないではないか。

迫力

創作において迫力を生む題材といえば「対立」であろう。主人公と何者かの対決。運命との対立、社会との対立という小説もあり得るが、その場合は運命や社会を体現している他者が登場することになる。

善悪の対立。主人公を悪にしてしまう方法があり、これだと文学にもなり得るだろう。悪を描こうとする時、作家は自分の中にある悪の部分を顕在化させ、見つめなおすという作業が必要になってくる。作者がどこまで、そして如何に自分自身の中の悪と対決ができるかが迫力の源となってくるだろう。

自分自身の脆弱な部分、卑劣な部分、臆病な部分を前景化させ、時には拡大したりするのは、私小説において壮絶な迫力を生む。自分自身との対決の中でも作家にとって特に過酷なのは、自身の俗物性との対決であろう。作家としてその俗物性を追求し、対決しなければならないのだと思う。けち臭さ、名誉欲、虚栄、金銭欲、色好み、世間体、嫉妬心、好奇心、美食、アルコール依存など数えあていけばきりがない。俗物性との対決は、作家にとって不可欠の作業である。これが創作においてどれだけ役に立つかは計り知れないものがあるのだし、そこには迫力の源が存在する。

最期の対決の相手は「死」である。主人公または作家が対決しなければならない最大のものが死であり、最大の迫力を生むのが死である。

展開

迫力ある筋運びとテーマなどの思索、この両極端な面白さを共に表現し続けるという展開を強いられる場合は大変多く、恐らくこれが展開を考える上で一番重要であり、一番の問題なのではないかと思う。

会話

会話で迫力を生むのはやはり対立であろうか。二人、または三人、または四人と、価値観の異なる人間が対立する図式は、実にまことに小説的である。対立でなく説得であってもいいし、交渉であってもいい。表面的には日常的な挨拶の裏にも対立があったり、恋愛の睦言の裏にも説得や交渉があったりする。とにかく会話は個性の異なる人物によってなされなければならないだろう。

夏目漱石の「明暗」。一見それは日常用語の会話であるようだが、裏に壮絶な対立を秘めている。会話の凄味を増しているのが地の文である。この場合は会話の読みやすさとは逆の難解さで、その単純さを補うかのように地の文は文学的、というよりは心理小説的、といった方がいいような文章によって、言語や行為の裏を読んでいる。それによって会話までが凄味を増す。












南部先生、ペンタクォークが見つかりましたよ



身の回りの物は何でできているのか?
好奇心を突き詰めると、小さな粒に行き当たる。
その粒が2、3個集まった粒子は知られているが、
5個も集まった粒子が、新たに見つかった。
その名も「ペンタクォーク」だ。

お久しぶりです。福田大展です。5つの素粒子で作られる粒子「ペンタクォーク」の存在を確認したという研究成果が14日に、欧州原子核研究機構(CERN)により発表されました。冥王星の美しい画像に見とれていたら、ツイッターでこのニュースを見つけたので、久しぶりに慌てて筆を取りました。ペンタクォークとはどんな粒子なのか? どんな実験で見つかったのか? じっくり見ていきましょう。


すべての原子は3種類の「素粒子」でできている

あたりを見回してみてください。何が見えますか? 私は本屋にいるので、本棚やたくさんの本が並んでいます。立ち読みをしている人の姿も見えます。皆さんは私と違う風景が見えているでしょう。しかし、私が見ているものも、皆さんが見ているものも、目に見えるすべての物質は、たった数種類の小さな粒「素粒子」でできているんです!



身の回りのものは原子でできています。どんどん細かく見ていきましょう。原子は中心にある原子核と、周りにある電子でできています。そして、原子核は陽子と中性子が集まったもの。さらに、陽子と中性子はアップクォークとダウンクォークという2種類の粒でできています。つまり、突き詰めると原子は「電子」と「アップクォーク」と「ダウンクォーク」の3種類の素粒子でできているんです!

物質をつくる素粒子は何種類?

物質をつくる素粒子は、この3種類だけでしょうか? 小林誠博士と益川敏英博士は1973年、「6種類のクォークがある」と理論的に予測しました。先ほどの「アップ」と「ダウン」に加えて、「チャーム」、「ストレンジ」、「トップ」、「ボトム」です。現在では、6種類のクォークが実際にあることが実験で確かめられ、2人は2008年にノーベル物理学賞を受賞しました。さらに、レプトンと呼ばれる電子の仲間も、6種類あることが分かっています。




そして、物質をつくる素粒子は上の図で示した12種類なのですが、それぞれに「影武者」がいるんです。質量はまったく同じで、帯びている電気のプラスとマイナスが逆になった「反粒子」です。




ペンタクォークってどんな粒?

今回、注目されているのはクォークです。クォークには「強い力」というクォーク同士を引きつける力が働き、複数のクォークが集まってひとつの粒子を作ります。一番身近なのが、先ほどの説明にもでてきた、陽子と中性子です。いずれも3つのクォークからできています。このように3つのクォークからなる粒子を「バリオン」と呼びます。また、クォークと反クォークのペアでできたものを「中間子(メソン)」と言います。



さらに、4つ集まったものを「テトラクォーク」といい、5つ集まったものが今回の主役の「ペンタクォーク」なんです。この4つと5つが集まった粒子は、理論的には存在すると考えられていますが、まだ確実には見つかっていませんでした。

どうやってペンタクォークを作ったのか

時速100kmでまんじゅうとまんじゅうが正面衝突したとします。(福田はいきなり何を言っているんだ!暑さでおかしくなったのか)何が飛び出てくると思いますか?



あずきの粒やあんこ、餅が砕け散って飛び出てくるでしょう。つまり、まんじゅうの中にあるものが出てきます。しかし、陽子と陽子をほぼ光の速さでぶつけると、面白い現象が起こるのです。陽子の中にはアップクォークとダウンクォークがあるので、普通に考えると、それらの粒が出てきそうですが、まったく違う粒が飛び出してくるのです!


陽子をほぼ光速でぶつける

これが陽子をほぼ光速に加速して衝突させる実験装置です。その名も、大型ハドロン衝突型加速器「LHC」。大型というだけあって、大きさは1周27km。地下100mの地下に山手線一周(34.5km)に近い長さのトンネルが掘られています。そのトンネルの中で、陽子を光速の99.999997%まで加速させます。そして、1秒間にトンネルを1万周ほど回る速さまで加速させた陽子を、「ガシャン!!」と正面からぶつけるのです。この装置の中には、衝突を観測する4つの巨大な検出器があり、そのひとつが今回ペンタクォークを見つけた「LHCb」と呼ばれるものです。



陽子と陽子の衝突の瞬間には何が起こっているのでしょうか。なぜ違う粒が飛び出してくるのでしょうか。その謎を解く鍵を握っているのが、この式です。



アインシュタインが考えた相対性理論に関係する式で、一度は耳にしたことがあるかもしれません。「E」はエネルギー、「m」は質量、「c」は光の速度です。この式は「エネルギーと質量は変換できる」ということを意味しています。つまり、エネルギーは質量を持つ粒子に変えられるし、その逆も成り立つということです。

具体的に見てみましょう。陽子と陽子をほぼ光速で衝突させると、粒はいったんエネルギに変わり、とても大きなエネルギーが生み出されます。そして、そのエネルギーの大きさに見合った別の粒子が新たに生み出され、飛び出してくるのです!




実際の実験では何が起こったのか

それでは、今回の実験では衝突の瞬間に何が起こったのかをじっくり見てみましょう!(強い意志を持ってついてきてください!)



【①】陽子の衝突のエネルギーで最初に生み出されたのは、「ラムダ粒子(Λ)」というバリオンの仲間でした。ラムダ粒子にはいくつか種類がありますが、今回のものは「ラムダb」という粒子で、アップとダウン、ボトムでできています。

【②】せっかくできたラムダ粒子ですが、一瞬で崩壊して別の2種類の粒子に変わってしまいます。そのひとつが、ペンタクォークだったと考えられているんです! 5個のクォークの内訳はアップが2個、ダウンとチャーム、反チャームが1個ずつです。そして、壊れでできたもうひとつの粒子が「K中間子」の仲間です。K中間子にもいくつか種類があるのですが、今回のものは「マイナスの荷電K中間子」で、ストレンジと反アップでできています。

【③】しかし、このペンタクォークも一瞬で崩壊して、2種類の粒にかわってしまいます。ひとつは陽子。もうひとつは「ジェイプサイ中間子(J/ψ)」と呼ばれる中間子で、チャームと反チャームのペアでできています。

【④】さらにジェイプサイ中間子は、2つのミュー粒子に崩壊します。



上の図が実際LHCbで観測した実験結果です。確かに、最終的にK中間子と陽子、2個のミュー粒子が飛び出していますね! しかし、皆さん思いませんか。検出されたのは、K中間子と陽子と2個のミュー粒子なのに、「なぜ途中の崩壊するプロセスまで分かるの?」って。

先ほどの建設途中のLHCbの写真を見ると、アヒルのくちびるのような形をした黄色い物がありますよね。実は、あそこに電流を流すと巨大な電磁石になるんです。そして、衝突によって発生した粒子が電磁石の間を通るときに、電荷を持っている粒は曲がります。その曲がり具合から、飛び出してきた粒子の運動量(質量×速度)や、帯びている電気の量がわかるんです。さらに、粒子の速度や、軌跡から崩壊した場所を特定する装置も備わっています。なので、検出された粒子の情報から元をたどっていけば、崩壊する前の粒子の質量などが計算で求められ、どんな粒子か推測できるのです!


▼南部先生
私がこの記事を書いている最中に、南部陽一郎先生の訃報を知りました。私は福井県の藤島高校の卒業生なのですが、南部先生はその前進の旧制福井中学をご卒業されており、私の大先輩にあたります。直接の接点はありませんが、科学館で働き始め、素粒子物理学のことを知れば知るほど、南部先生の偉大さが身にしみました。

南部先生は「対称性の自発的破れ」という理論の発見で、2008年のノーベル物理学賞を受賞しました。そして、それだけでなく、2013年に同賞を受賞した「ヒッグス機構の理論的発見」の考え方にも、大きく影響を与えています。(そのときの話は、このブログでまとめています。)

「世の中はどんな法則でできているのか」という根源的な知的好奇心に対し、南部先生の研究は何度も私の心を鷲掴みにしてワクワクさせてくれました。良い小説や音楽と出会った時のように、ドキドキさせてくれました。ありがとうございました。お悔やみ申し上げます。南部先生は研究の最前線から離れてからも、学問への向上心は持ち続けていたと聞いています。南部先生は今、ペンタクォークの発見のニュースを聞いて、何を思っているのでしょうか。

























経緯

5つの素粒子で作られる粒子「ペンタクォーク」を発見したという研究成果を、欧州原子核研究機構(CERN)が14日に発表した。 大型ハドロン衝突型加速器(LHC)に設置された実験装置のひとつの「LHCb」を使った研究チームが検出した。


ペンタクォークとは

▼バリオン
3つのクォークで構成される。スピンが半整数のフェルミオン。例えば、陽子(uud)や中性子(udd)などがある。

▼メソン(中間子)
クォークと反クォークのペアで構成される。スピンが整数のボゾン。

▼テトラクォーク


▼ペンタクォーク
クォーク4個と反クォーク1個で構成される重粒子。


LHCb実験

大型ハドロン衝突型加速器「LHC」では、陽子と陽子を正面から衝突させてエネルギーを生み出し、その中から生まれる粒子を検出する実験装置。主に4つの巨大な観測装置があり、それぞれ「ATLAS」「CMS」「LHCb」「ALICE」という名前の検出器がある。


LHCb(LHC-beauty)では、ボトムクォークを含む「B中間子」をたくさん作ってその振る舞いを調べ、標準理論を検証している。写真は建設途中のLHCb。

実験結果

バリオン「Λb」が、以下の3つの粒子に崩壊した。
「J/ψ中間子」「陽子(proton)」「K-・荷電K中間子(Kaon)」

できたペンタクォークは、以下の5つの素粒子で作られていたと考えられる。
2個のアップクォーク(u)、ダウンクォーク(d)、チャームクォーク(c)、反チャームクォーク(anti-c)

ラムダ粒子とは、アップクォーク(u)とダウンクォーク(d)、もう一つのクォークでできたバリオン。ボトムラムダ(Λb)は(udb)。

J/ψ中間子とは、チャームクォークと反チャームクォークからなる中間子。別名チャーモニウム。
K中間子には、K-、K+、K0、K0バーの4種類がある。K-はストレンジクォークと反アップクォーク、K+は反ストレンジクォークとアップクォーク、K0は反ストレンジクォークとダウンクォーク、K0バーはストレンジクォークと反ダウンクォークでできている。K-とK+は荷電K中間子と呼ばれる。K0とK0バーは中性K中間子と呼ばれる。