創作の極意と掟


凄味

自分の表現するものの正当性があまり正当でなく、ちょっとズレていた方が凄味が強く出る。私の感覚は正しいと主張して少しまともではない感覚を表現する方が、凄味があるのだ。

逆に、自分の考え方すべてに自信満々という人の書いたものには、まったく凄味がない。なぜ自信満々なのかというと、その考え方が誰にでも受容できる凡庸な、陳腐極まりないものであることが多いからだ。それが良識のつまらなさであり、普遍的な価値観の退屈さであり、自動的な思考の馬鹿らしさなのである。

技巧によって凄味を出したりもする。理解不能な人物を登場させたり、舞台設定をあやふやにしたり、登場人物の心に存在する闇の部分を仄めかしたり、作者であることの優位性を利用して必要なことを読者に教えなかったり、ここから先は作者にしかわからないのだということを強調したり、つまりはその作品世界の「底の知れなさ」を読者に感じさせるのである。

色気

主として文中に、ほとんどは作者が意図せずして生み出し、時には湧き出させ、稀に横溢させている色気のことである。

そもそも小説は情感を伝えることが大事であり、たいていの作品はそれを意図して書いている。いかにして自分の情感を伝えるか、そのためにはどのような表現をすればよいかに腐心する。だから、どのような小説の文章にも色気があるのは当然と言える。

「死」や死に直面する「恐怖」は、案外色気と結びつくのである。「すぐ傍らに死があるから『いまの瞬間』をこのうえなく美しく感じたのだろう」

通常想像する色気のある文章とは、情感たっぷりの、情緒纏綿たる、形容過多の文章である。そのような文章の対極にあるのがハードボイルドの文体だ。簡潔な、ぽきぽきと釘が折れたようなと形容されることの多い文章だ。では、ああいった文章に色気はないのかと言えば、ちっともそんなことはない。

揺蕩

【揺蕩】ようとう
 ゆれ動くこと。ゆり動かすこと。動揺

小説家というのは、考え方を理論化するのではなく、小説にしなければならないのだ。体系立てていないままの考えであり、それを小説に書こうとしているうちは、辻褄の合わぬところが生まれてくる。登場人物の主張や考え方が、前半と後半で違ってきていたり、作者つまり語り手のある事象に関する価値評価や判断がふらふらと揺れ動き、確定しない。こういう「揺蕩」を批評用語でアポリアと言う。この揺蕩を作家は恐れてはならない。

その揺蕩ゆえに新しさが発見されたりもするし、実際に批評家たちはこのアポリアを珍重して、その作家を理解する一助とすることもあれば、その作品の新しさや作家の言いたいことを発見したりもする。

精神の揺蕩を持たぬ人がいるだろうか。それはその人の成長の証なのかもしれないではないか。

迫力

創作において迫力を生む題材といえば「対立」であろう。主人公と何者かの対決。運命との対立、社会との対立という小説もあり得るが、その場合は運命や社会を体現している他者が登場することになる。

善悪の対立。主人公を悪にしてしまう方法があり、これだと文学にもなり得るだろう。悪を描こうとする時、作家は自分の中にある悪の部分を顕在化させ、見つめなおすという作業が必要になってくる。作者がどこまで、そして如何に自分自身の中の悪と対決ができるかが迫力の源となってくるだろう。

自分自身の脆弱な部分、卑劣な部分、臆病な部分を前景化させ、時には拡大したりするのは、私小説において壮絶な迫力を生む。自分自身との対決の中でも作家にとって特に過酷なのは、自身の俗物性との対決であろう。作家としてその俗物性を追求し、対決しなければならないのだと思う。けち臭さ、名誉欲、虚栄、金銭欲、色好み、世間体、嫉妬心、好奇心、美食、アルコール依存など数えあていけばきりがない。俗物性との対決は、作家にとって不可欠の作業である。これが創作においてどれだけ役に立つかは計り知れないものがあるのだし、そこには迫力の源が存在する。

最期の対決の相手は「死」である。主人公または作家が対決しなければならない最大のものが死であり、最大の迫力を生むのが死である。

展開

迫力ある筋運びとテーマなどの思索、この両極端な面白さを共に表現し続けるという展開を強いられる場合は大変多く、恐らくこれが展開を考える上で一番重要であり、一番の問題なのではないかと思う。

会話

会話で迫力を生むのはやはり対立であろうか。二人、または三人、または四人と、価値観の異なる人間が対立する図式は、実にまことに小説的である。対立でなく説得であってもいいし、交渉であってもいい。表面的には日常的な挨拶の裏にも対立があったり、恋愛の睦言の裏にも説得や交渉があったりする。とにかく会話は個性の異なる人物によってなされなければならないだろう。

夏目漱石の「明暗」。一見それは日常用語の会話であるようだが、裏に壮絶な対立を秘めている。会話の凄味を増しているのが地の文である。この場合は会話の読みやすさとは逆の難解さで、その単純さを補うかのように地の文は文学的、というよりは心理小説的、といった方がいいような文章によって、言語や行為の裏を読んでいる。それによって会話までが凄味を増す。