本を読むときに 何が起きているのか


フィクション

ほとんどの小説家は、登場人物の身体的特徴よりも、その行動について詳細に描く。

人物描写は一種の輪郭作りだ。登場人物の特徴は、その輪郭を言葉で説明したものである。その人物の意味合いをはっきりさせるためだけに必要な特徴だ。

テクストが明らかにしていないものこそが、私たちの想像力を誘発する。私は自問する。作家の描写が省略が多く抑制的であればあるほど、私たちはより詳細に、この上なく鮮明に想像できるのではないだろうか?

登場人物は暗号である。そして物語は省略によってより豊かになる。

究極的には、登場人物が、架空の輪郭づけられた世界に登場するすべての人物や事象に対しての関係性の中で、どのような行動をとるかということが重要なのだ。

私たちは常に、小説の登場人物の像を脳裏に思い返し、再考し、修正して、さかのぼって再確認し、新しい情報を得るたびに更新するのだ。

時間

私にとって最高の本とは、高速で進みながらも、時折、人を停車させて路肩で驚かそうとする、そんな本だ。

ジェイムズ・ジョイスの小説の登場人物であるバック・マリガンは、「ユリシーズ」の冒頭においては、単なる記号にすぎない。しかし、小説の中で彼と他の登場人物との交流を知っていくと、より微妙なニュアンスを帯びてくる。ダブリンの人々とのやりとりから、彼の別の側面が見えてくる。ゆっくりと、バック・マリガンは複雑になっていく。

すべての文学作品の中の登場人物のキャラクターがそうであるように、バックのキャラクターも、行為と行為の相互作用から生まれた、複雑な現象と言える。

ナイフは、切るという行為によってナイフになる。

登場人物はその行為によって理解される。まるで後を追っている人を見るかのように、登場人物を思い描くのだ。群衆の中に飛び出た頭、角を曲がる上半身、見逃してしまいそうな足元・・・。フィクションにおいて、このバラバラな部分を集める行為は、実生活で人と場面を一致させる方法と似ている。

鮮やかさ

イメージの特定性と文脈がはっきりしていればいるほど、より鮮明にイメージは呼び起こされると、ナボコフは主張しているようだ。

描写の「真」の感覚は、その描写の特定性によるものだ。

描写は加法的ではない。しかし、見えているもの(光景)は加法的であり、同時発生的だ。

素描する

私が輪郭を捉えようとする形象の遠近感は、紙の一歩手前に、鉛筆の削ってないほうの端に。つまり、私の内部にあるのです。

私は、想像とは視力のようなものだと思う。つまり、ほとんどの人間が持つ能力である。しかし、もちろん、視覚を持つ者が全員同じ視力で見ているわけではない・・・。

あいまいで不完全な想像を超えられないことが真実ならば、それこそが、文字による物語が愛される究極の理由ではないだろうか。つまり、時に我々は見たくないのだ。

共同創作(Co-Creation)

良い本は、作家が提案したものに書き加えていくように、読者の想像力を誘発する。この共同創作の行為やパーソナライズ(個人化)がないと、読者には次のようなものしか与えられない。

私たちは、本の内容を想像するとき、その本が与えてくれる流動性や気まぐれを望んでいる。見せてもらいたくないものもあるのだ。

読書しながら見るこれらのイメージは、個人的なものである。私たちが見ることのないものが、作家がその本を書くときに描写したものである。つまり、すべての物語は変換されるべく、想像的に解釈されるべく書かれているのだ。その連想的に解釈されたその物語は、私たちのものなのである。

おそらく、役と舞台装置という2つの言葉は、小説を解説するときにも使えるのではないか?

読者は、小説の舞台となっている場所、登場する物や人物が、自分の思い描く場所や物、人物と同一であってほしいと思う。この欲望は矛盾をはらんでいる。この欲望は本人以外立ち入ることができない極私的な領域にアクセスすることへの欲望であり、一種の強欲である。しかしそれは、その光景を共有しているという、孤独に対する防衛策でもある。

読者の想像の領域中での、作家の役割とはなんだろう?

目、視覚、媒体

私たちは想像のメタファーを内側へ向かうものとしてとらえている。外部の光景は、内部の視界を抑制するだけだ。わたしは目隠しをされて歩いていたような気分がします。この本はわたしに眼を与えてくれるように思います。

想像は「内心の眼」のようだと言える。

茫然と、または思いに沈んで
臥しどに身をよこたえるとき
彼等は、孤独のよろこびである
内心の眼にひらめくのだ
(ウィリアム・ワーズワース)

ワーズワースの水仙は、想像したというよりは記憶したものだ。水仙の花、その黄金のグラデーションと、けだるい揺らめきが、最初は詩人に感覚的な情報としてとらえられたのだ。詩人はそれを(おそらく)受け身で受容する。後になって初めて、これらの花が、詩の中に反映されたり能動的な想像の栄養になるのだ。

どこかの時点で、ワーズワースはこの水仙の花を内在化した。しかし記憶の原料は、おそらくは実際の水仙なのだ。

「星屑」のように広がる花の黄色が、私たち自身の「内心の眼」の前で「ひらめく」。


本から何かを想像するとき、私たちはどこにいるのだろう? どこにカメラはあるのだろう?

物語が一人称で語られるなら、そして特に物語が現在形で進むならば、私たち読者は自然と、行動を語り部の「眼を通して」見るようになる。

語りの声が三人称の場合、あるいは、一人称の物語の舞台が過去の場合(まるで友人が物語を思い出しているような)、私たちは自然と行為の「上」もしくは「横」にいる。私たちの有利な観点、例えば、物語の有利な観点は「神の視点」だ。

記憶と幻想(Memory and Fantasy)

想像の材料として、そして想像と混ざりあっているものとしての記憶が、想像であるかのうように感じるのではないか。そして、想像というものが、組み立てられた記憶のようにも感じるのではないかと思うのだ。

記憶は、想像上のものから作られていて、想像上のものは、記憶から作られている。

小説の出来事や付属物を思い描くという行為は、私たちに思いがけず過去を振り返らせる。そして私たちは、夢をたどるように残像の中を探り、ヒントや、失われた経験の断片を探すのだ。

言葉が効果的なのは、その中に何かを含んでいるからではなく、読者の中に蓄積された経験の鍵を開けることができるという潜在的な可能性があるからだ。言葉は意味を「含む」が、もっと重要なのは、言葉が意味の有効性を高めるということである。

私は「川」という言葉を読み、文脈のあるなしにかかわらず、その表面的な言葉の下へ潜り込む。

読者の記憶はすでに川の水で溢れている。作家はその水たまりをちょっとつついてくれればいい。

共感覚(Synesthesia)

読書の際に経験することの多くが、ある感覚が別の感覚と重なったり置き換えられた、共感覚的な出来事である。音は見え、色は聞こえ、光景は香るなど。

真に伝わってくるのはリズムだ。このリズムは、若い女性のそばを歩く青年の上気する心を伝えている。彼の増幅する幸福感が、意味的にではなく、音響的に伝わってくるのである。

言葉の持つリズム、音域、擬音は、聴取者と読者(静かなる聴取者)の中に共感覚的な変質を形成するのだと、詩人なら誰もが言うだろう。

言葉から音楽が生まれる。

部分と全体(the Part and the Whole)

アキレウスには形容語句が添えられている。「蛇足の」アキレウスだ。この形容語句は、名札のようなものだ。読者やホメロス自身の記憶を助けてくれる装置にもなる。これらの形容語句は描写というよりは様式化されたものだ。

ヘーラーの目は、ある程度は、その人物設定全体を言い表すものだ。彼女の部分であり、彼女の全体性を表す代理だ。ヘーラーの目は、換喩と言われるものの例である。換喩は、ひとつの物(または概念)が、関連する何か別の物(または概念)で呼ばれる比喩的表現のことである。

もっと特定的に言えば、ヘーラーの目は提喩の例である。提喩とは、部分が全体を表す換喩である。

部分は全体の一部であるという「部分―全体関係」の理解は、現実世界を理解して、その理解を他者に伝えるためにはとても重要な道具である。

この部分から全体を推定する生まれ持った能力は根本的かつ再起的で、私たちは部分―全体構造を理解することで、現実世界において精神的にも物理的にも何らかの方法で機能できるようになるのと同じように、登場人物を見ることができ、物語を見ることができるようになるのだ。

形容語句と隠喩は名前ではない。しかし、どちらも説明ではない。作者が登場人物の代わりにどの要素を選ぶかというのは非常に重要な問題だ。そのやり方によって、作者は、その登場人物をさらに定義づけることになる。

ぼやけて見える(It is Blurred)

世界は断片からできている。不連続で、散らばった、断続的な点。

私たちは、自分自身や周囲のことを読み取り、形容語句を与え、隠喩、提喩、換喩することによって知る。世界で一番愛している人のこともそうだ。彼らの断片と彼らに置き換えられたものを読み取っているのだ。

私たちは未完成で進行中である世界の断片を、時間をかけてつなぎあわせ、統合しながら理解していく。

作家は経験をキュレーション(収集・整理・管理)している。世界の雑音をろ過して、その雑音の中から可能な限り純粋な信号をつくる。つまり、無秩序から物語を作るのだ。

私たちの脳は、世界中に存在する、ろ過されていない暗号化された信号と同様に、本というものもろ過されていない信号とみなしている。つまり、作家の著作は、読者にとっては、雑音という種に属しているのだ。作家の世界観をできるだけ自分たちの中に飲み込んで、私たちの思考の中にある蒸留機の中で、その素材を自分たち自身の世界と混合し、組み合わせ、何か唯一独特のものに変質させるのだ。

本を読むという活動は、意識そのもののように感じ、また、意識そのもののようなものだ。つまり不完全で、部分的で、かすみがかっていて、共同創作的なものなのである。

物語を思い描くことは、絵の中で人物が影にされてしまうように、要約することである。そうすることで意味を作り出す。

細部ではなく、あくまで輪郭を描くのだ。