核融合

小冊子「尾鷲であった戦争」

【時系列編】
 年表を作成(尾鷲市史などを情報源とする)

①地震・津波
 1944(昭和19)年12月7日午後1時36分
 P (2):郡役所に突っ込んだ写真、上空写真
 Fig(1):尾鷲周辺の地図(浸水場所、船が突っ込んだ場所を示す)
 北川に船が2隻突っ込んだ。
 安部さん「家とか船とか沖にいっぱいだった」
 ▶人:森本一利さん(85)体験談

②B29の集結
 1944(昭和19)年12月13日
 P,Figなし(さらっと)
 中部、近畿地方へ空爆に向かうB29(1機)が初めて尾鷲上空を通過。
 その後は毎晩のように300〜400機が集結した。

 海山の空襲
 1945(昭和20)年3月

③中川牧場への空爆
 1945(昭和20)年4月7日
 P (1):爆弾が落ちた中川の現在の写真
 Fig(1):中川牧場の位置を示す地図
 初めての空爆。1回目は海岸沿いに11発、2回目は中川に12発を投下。
 中川牧場の主人が爆死。子どもは両足がなくなった。
 2人が死亡、数人が負傷、乳牛12頭が犠牲になった。
 牛舎を軍需工場に見間違えたのか、機体を軽くするために残った爆弾を捨てたのか原因はわからない。
 2回目の空爆は向井と北側沿いに投下。向井の山道で一人死亡。山火事が発生した。

④三野瀬駅の汽車襲撃
 1945(昭和20)年7月25日
 P (2):山本さんの語る現在の写真、大漁旗作りの写真
 三野瀬駅に停車していた上下線の2列車に機銃掃射。
 死傷人数は13人(紀伊長島の記録)、60人(尾鷲市の記録)
 ▶人:山本昇吾さん( )尾鷲市●町 三野瀬駅で機銃掃射された

⑤駒橋の奇襲攻撃
 1945(昭和20)年7月28日午前7時ごろ
 P(5):駒橋座礁、第45海防艦座礁、駒橋、安部さん、神保さんの写真
 米軍のグラマン戦闘機が6機編成で佐波留島上空に現れ、
 3機は尾鷲湾、3機は須賀利湾の鑑定に奇襲攻撃
 午後4時ごろまで30分間隔で波状攻撃。気銃弾の雨とロケット爆弾を投下してきた。
 軍艦「駒橋」は爆弾を受け浸水。沈没を免れるために国市の浜に座礁した。
 第45海防艦も大破し、天満浦・古里の浜に座礁した。
 尾鷲の住民は中村山防空壕をはじめ各避難所に避難。須賀利の住民は裏山に避難した。
 戦闘で即死した戦死者は72人で、重軽傷者は250人。
 「尾鷲小学校が野戦病院に」
 負傷者は中村山の防空壕内で応急手当を受け、尾鷲国民学校(現尾鷲小学校)に収容された。
 十分な治療ができず死者が続出し、死者は147人にのぼった。
 足がないのに「立たして」
 ▶人:安部一美さん( )尾鷲市南陽町 駒橋の奇襲攻撃のときの第10昭和丸の乗組員
 ▶人:神保幸子さん( )尾鷲市●町  通信員で空襲を経験

【生活編】
 座談会の生の話がおもしろかったので、そのまま会話調で載せます。

⑥食料
 P(1):女性が開墾
 米俵を赤ん坊に見せかけて運んだ
 学校の校庭や山の頂上まで開墾した
 海藻をふやかして食べた

⑦防空壕での生活
 P (1):中村山防空壕
 Fig(1):目と耳を押さえるようす
 梅雨時は雨漏りがひどかった。
 蒸し暑く息苦しかった。
 赤ちゃんを泣かないようにさせるのが大変だった

⑧訓練の様子
 P(1):バケツリレーの練習風景
 バケツリレーによる消火活動の練習
 竹槍、なぎなたの練習
 憲兵の怖さ

【現在編】
⑨防空壕マップ
 P(●):現在の防空壕を撮れただけ載せる

⑩今も残る戦争の傷跡
 P(3):各1枚ずつ
 三野瀬駅の汽車襲撃での弾痕
 三木崎灯台の空襲での弾痕
 慰霊碑

⑪戦争を調べる資料紹介

めがねミュージアム


 福井県は、国内生産フレームの9割以上のシェアを持つめがねの聖地です。「福井のめがね」は日本の優れたモノづくりの技術のひとつ。それを多くの人に知ってほしい、そして、この産地でめがねづくりに携わっている人々にも100年余の歴史と進化を誇りに思ってほしいという思いから、2010年3月にめがねミュージアムはうまれました。


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東南海地震・津波の話

森本一利さん(85)祝子さん(82)夫妻
2010年4月

東南海地震での津波の話

午前中の仕事を終えて昼休みのころ、揺れは襲った。
「しこを踏むように踏ん張らないと倒れそうやった」。

仕事場の2階の踊り場に備えてあった防火水槽が、
地震で倒れて滝のように水が流れてきた。

外に避難すると、
コンクリートではない土砂の道が揺れででこぼこに変化し、
腰を抜かしたおじいちゃんが四つん這いではっていた。

午後の仕事は休みになり、中村山の上に避難した。
山の上から津波が押し寄せるようすを固唾をのんで見守った。
「天満浦の防波堤がいっぺんにすぽっとなくなった」。
それだけ一気に海面が上昇した。

尾鷲湾内に停泊していたカツオ船が陸に乗り上げ、多くの家がつぶされた。
当時は長久丸冷蔵の土地に紀州ミカンの缶詰工場があり、
湾内に波にさらわれたミカンが浮いて、黄色い渦を巻いていたという。

家がつぶれたとき、土壁の土が煙のように上がった。
「ものすごい景色やった」と振り返る。
煙がなくなるのを待って、位牌を取りに帰った人が大勢いたが、
その多くは第2波にさらわれてしまった。

小冊子「尾鷲であった戦争」をまとめる

【時系列編】
①地震・津波
 1944(昭和19)年12月7日午後1時36分
 P (2):郡役所に突っ込んだ写真、上空写真
 Fig(1):尾鷲周辺の地図(浸水場所、船が突っ込んだ場所を示す)
 北川に船が2隻突っ込んだ。
 安部さん「家とか船とか沖にいっぱいだった」

②B29の集結
 1944(昭和19)年12月13日
 P,Figなし(さらっと)
 中部、近畿地方へ空爆に向かうB29(1機)が初めて尾鷲上空を通過。
 その後は毎晩のように300〜400機が集結した。

③中川牧場への空爆
 1945(昭和20)年4月7日
 P (1):爆弾が落ちた中川の現在の写真
 Fig(1):中川牧場の位置を示す地図
 初めての空爆。1回目は海岸沿いに11発、2回目は中川に12発を投下。
 中川牧場の主人が爆死。子どもは両足がなくなった。
 2人が死亡、数人が負傷、乳牛12頭が犠牲になった。
 牛舎を軍需工場に見間違えたのか、機体を軽くするために残った爆弾を捨てたのか原因はわからない。
 2回目の空爆は向井と北側沿いに投下。向井の山道で一人死亡。山火事が発生した。

④三野瀬駅の汽車襲撃
 1945(昭和20)年7月25日
 P (2):山本さんの語る現在の写真、大漁旗作りの写真
 三野瀬駅に停車していた上下線の2列車に機銃掃射。
 死傷人数は13人(紀伊長島の記録)、60人(尾鷲市の記録)
 人:山本昇吾さん( )尾鷲市●町 三野瀬駅で機銃掃射された

⑤駒橋の奇襲攻撃
 1945(昭和20)年7月28日午前7時ごろ
 P(5):駒橋座礁、第45海防艦座礁、駒橋、安部さん、神保さんの写真
 米軍のグラマン戦闘機が6機編成で佐波留島上空に現れ、
 3機は尾鷲湾、3機は須賀利湾の鑑定に奇襲攻撃
 午後4時ごろまで30分間隔で波状攻撃。気銃弾の雨とロケット爆弾を投下してきた。
 軍艦「駒橋」は爆弾を受け浸水。沈没を免れるために国市の浜に座礁した。
 第45海防艦も大破し、天満浦・古里の浜に座礁した。
 尾鷲の住民は中村山防空壕をはじめ各避難所に避難。須賀利の住民は裏山に避難した。
 戦闘で即死した戦死者は72人で、重軽傷者は250人。
 人:安部一美さん( )尾鷲市南陽町 駒橋の奇襲攻撃のときの第10昭和丸の乗組員
 人:神保幸子さん( )尾鷲市●町  通信員で空襲を経験

⑥尾鷲小学校が野戦病院に
 P(0):なし
 足がないのに「立たして」
 中村山の防空壕でフジイトシ先生(?)が活躍
 負傷者は中村山の防空壕内で応急手当を受け、尾鷲国民学校(現尾鷲小学校)に収容された。
 十分な治療ができず死者が続出し、死者は147人にのぼった。

【生活編】
⑦食料
 P(1):女性が開墾
 米俵を赤ん坊に見せかけて運んだ
 学校の校庭や山の頂上まで開墾した
 海藻をふやかして食べた

⑧防空壕での生活
 P(1):中村山防空壕

⑨訓練の様子
 P(1):バケツリレーの練習風景
 バケツリレーによる消火活動の練習
 竹槍の練習
 憲兵の怖さ

【現在編】
⑩防空壕マップ
 P(●):現在の防空壕を撮れただけ載せる

⑪今も残る戦争の傷跡
 P(3):各1枚ずつ
 三野瀬駅の汽車襲撃での弾痕
 三木崎灯台の空襲での弾痕
 慰霊碑

⑫戦争を調べる資料紹介

調べたい

佐久総合病院の農村医療

尾鷲PA構想

高速延伸で絶対に欲しいハード「尾鷲PA」。
そこららへんにあるようなPAではいけない。
オリジナリティのあるものにしなければいけない。

【Idea01】「干物を買ってすぐ焼いて食べる」
 尾鷲の特産物である干物の物産スペースを作り、
隣接して和室のスペースを設ける。
畳の広い場所で靴を脱いでくつろげる。
七輪を家族で囲み、買ったばかりの干物を焼いて食べられる施設。

【Idea02】「泥レススタジアム」