テーマ別に情報を整理してみる。
① B29の集結
1944(昭和19)年12月13日(19日?)
中部、近畿地方へ空爆に向かうB29(1機)が初めて尾鷲上空を通過。
その後は毎晩のように300〜400機が集結した。
② 中川牧場への空爆
1945(昭和20年)4月7日
初めての空爆。1回目は海岸沿いに11発、2回目は中川に12発を投下。
中川牧場の主人が爆死。子どもは両足がなくなった。
2人が死亡、数人が負傷、乳牛12頭が犠牲になった。
牛舎を軍需工場に見間違えたのか、機体を軽くするために残った爆弾を捨てたのか原因はわからない。
2回目の空爆は向井と北側沿いに投下。向井の山道で一人死亡。山火事が発生した。
③ 軍艦「駒橋」の配備
軍艦「駒橋」を指揮艦として、第45海防艦、第14駆潜艇、特別駆潜艇2隻の計5隻を尾鷲湾の基地に配備。
第26掃海艇の4隻を配下に吸収し「海軍熊野部隊」を編成した。
駒橋(1125㌧)長さは64m、幅10.7m、速力14ノット
駆潜艇(438㌧)長さ51m、幅6.7m、速力16ノット、乗員68人
掃海艇 西大洋漁業第18幡州丸(264㌧)
尾鷲湾にすべての船が集まっていると攻撃目標になるので、一部は須賀利湾に分散した。
一部の船は船首に爆薬を装填。敵の鑑定が接近した場合は体当たりする「海の特攻隊」の準備を進めていた。
④ 駒橋への奇襲攻撃
1945(昭和20)年7月28日午前7時ごろ
米軍のグラマン戦闘機が6機編成で佐波留島上空に現れ、3機は尾鷲湾、3機は須賀利湾の鑑定に奇襲攻撃
午後4時ごろまで30分間隔で波状攻撃。気銃弾の雨とロケット爆弾を投下してきた。
軍艦「駒橋」は爆弾を受け浸水。沈没を免れるために国市の浜に座礁した。
第45海防艦も大破し、天満浦・古里の浜に座礁した。
尾鷲の住民は中村山防空壕をはじめ各避難所に避難。須賀利の住民は裏山に避難した。
戦闘で即死した戦死者は72人で、重軽傷者は250人。
負傷者は中村山の防空壕内で応急手当を受け、尾鷲国民学校(現尾鷲小学校)に収容された。
十分な治療ができず死者が続出し、死者は147人にのぼった。
⑤ 防空壕での生活
駒橋が奇襲攻撃を受けた次の日、
中村山の防空壕には夜明けごろから満員で呼吸困難。
腹が減ったが朝食を炊くと煙が出るので、配給された米を生でかんだ。
⑥ 住民が消火訓練
米軍が遠州灘から熊野灘にかけて上陸するとの噂が流れた。
住民はバケツリレーによる防火訓練や竹槍の作成、戦闘訓練を強いられた。
⑦ 三野瀬駅の汽車襲撃
1945(昭和20)年7月25日
三野瀬駅に停車していた上下線の2列車に機銃掃射。
死傷人数は13人(紀伊長島の記録)、60人(尾鷲市の記録)
山本昇吾さんは当時尾鷲中4年生の15歳。
松阪市の住友の軍需工場で働いていた。
月に1回、尾鷲に帰省し、再び松阪市へ向かう途中だった。
「助けて、助けて」。
血だらけで顔が真っ赤の女性が、赤ちゃんを抱えている。
額には頭上から弾薬が突き抜けた穴があり、おびただしい血が出ている。
赤ちゃんの顔も母親の血で真っ赤に染まり、泣きじゃくっている。
「私はもう目が見えん。子どもが大丈夫か見てくれ」。母親は叫んだ。
「大丈夫です」。山本が答えると、母親の口元がゆるんで笑みを見せた。
山本は母親を背負って運び警防団に引き渡した。
尾鷲市の病院に運ばれたが、その後亡くなった。
「弾が突き抜けているのに突っ立っとった。母親が子を思う心はすごい」。
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